出石(いずし) | 徳富 均のブログ

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 但馬国出石。古代には、但馬国府と丹後国府の往還路にあったこの地に、戦国時代末期、守護大名の山名祐豊(すけとよ)は有子山(ありこやま)城を築き、但馬の本拠地とした。しかし、天正8年(1580)、羽柴秀吉の弟、秀長に討たれ、南北朝以来の名家、山名氏の宗家は滅んだ。慶長9年(1604)に出石藩主となった小出吉英(こいで よしひで)は、城山(有子山)の麓に新たに出石城を築き、城下町を整備した。

 出石城の北東に建つ宗鏡寺(すきょうじ)は、江戸時代前期の高僧、沢庵和尚が中興開山した寺である。通称「沢庵寺(たくあんでら)」で知られるこの寺は、14世紀後半、出石神社東北の此隅(このすみ)山に山名氏が建立したと伝えられ、元和2年(1616)に出石藩主の小出吉英が沢庵の勧めで現在地に再興し、歴代藩主の尊崇を集めた。

 たくあん漬けの生みの親ともされる沢庵は、天正元年(1573)、出石に生まれた。10歳から宗鏡寺塔頭の勝福寺(しょうふくじ)などで修行を積み、京や堺で詩歌や儒学を学び、慶長14年(1609)、朝廷に招かれ、37歳で京都大徳寺の住持となった。しかし、沢庵はその地位を捨て、元和6年から宗鏡寺裏の投淵軒に隠棲したとされる。その後、幕府の許可なく紫衣(しえ)を着用することを咎めた紫衣事件で幕府に反抗し、出羽上山(かみのやま、山形県)に流されたが、徳川家光の帰依を受け、品川東海寺の住持となり生涯を終えた。

 出石城の旧内堀の一角にある辰鼓楼(しんころう)は、明治時代、1時間ごとに辰(とき・時)を告げる為、太鼓を打っていたことからその名がついた。

 江戸時代後期、財政事情が悪化していた出石藩では、ともに藩主一族であった家老の仙石左京と仙石造酒(みき)が藩政をめぐって対立した。文政7年(1824)に藩主が急死していたこともあり、後継者問題をも含んだお家騒動が紛糾し、幕府の裁きを受けることとなった。その結果、左京は獄門。藩主となっていた仙石久利も、藩の内紛の責任をとらされ、5万8千石から3万石に減ぜられたうえ、閉門を申し渡された。

 権力闘争は、どのような組織でも生じることで、よほどの権力者でない限りそれを勝ち抜いていくことは難しいでしょう。そのためには、単なる「離合集散」ではなく、本当に信頼のできる者との協力体制を築いておくべきなのでしょう。