豊岡 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 古代、但馬国分寺が置かれた兵庫県日高町から北へー。『但馬湯嶋道之記』に「湯嶋(城崎)より3里・・・出石へ行くの道あり」と記された豊岡は、京極氏が寛文8年(1668)に入封して以来、その城下町となり、水陸交通の要衝として賑わった。丸山川西岸に築かれた豊岡城は、嘉吉の乱の際、赤松氏を追討した山名持豊(宗全)が、永享年間(1429~41)に築いていたという。「城崎城」が前身とされる。

 南北朝時代末期、山名氏は一族の領有する地が日本全国の6分の1を占めていたことから、「六分の一殿」と呼ばれた。持豊の時代にも、一族で9ヵ国の守護職を有する日本屈指の大名であったが、管領(かんれい)家の中で随一の力を誇っていた細川氏と対立。持豊は、家の再興を狙って挙兵した赤松一族を攻めたが、山名氏の宿敵とも言える赤間氏に幕府への出仕を認めた。この背景には細川氏の強力な支援があったとされ、将軍義政の後継争いも絡み、幕政に有力者たちの関係は一触即発の様相を呈していく。

 そしてついに応仁元年(1467)、細川勝元率いる東軍と山名持豊の西軍による応仁の乱が始まった。戦国時代の火ぶたが切って落とされ、京を主戦場とした戦いは10年及んだ。これをきっかけに山名氏一族の力は衰え、持豊は文明5年(1473)に京の陣中で死去した。

 10年にも及んだ応仁の乱で、京の街は灰燼に帰しましたが、町衆の力で見事に復活しました。人間の再生力は大きなもので、過去の歴史の上においてもう駄目だと何回も思った日本は不死鳥のごとく蘇ってきました。国が、人間が滅びるのは「気力が萎えたとき」です。気力が充実していれば、少々の「躓き」は必ず乗り越えられるでしょう。