神籠る山 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 宮崎市の西、去川(さるかわ)の関所手前の高岡は、江戸時代、商業の町として栄えた。大淀川中流のここから山中に分け入り、大隅との国境の町、都城に至る。

 北西に霧島山、南に金御岳(かねみだけ)、東に鰐塚山地と、三方を山に囲まれた都城は、神代に神都高千穂宮が建てられ、都島(みやこじま・宮古島)と称していた。その後、14世紀半ばには城が築かれ、この地は都城と名づけられた。

 霧島山は、標高1500mほどの山々が峰を連ねる火山群の総称で、この連山を代表する秀麗な高峰は高千穂峰とよばれる。天孫が降臨した霊峰は、この峰とも言われ、山頂にはニニギノミコトが降臨の際に立てたとされる天ノ逆鉾が立つ。鎌倉時代の古辞書『塵袋(ちりぶくろ)』は、『薩摩国風土記』の逸文を引用して、その降臨地を、「日向国贈於郡高茅穂かん(木へんの右に患者の患)生峯(霧島の高千穂)」(ひむかのくに そおのこほり たかちほくしふのたけ)とし、長門本『平家物語』でも、降臨地を霧島の峰としている。古くから、降臨地は日向臼杵郡の高千穂か、霧島の高千穂かという二つの説が並行していたのである。

 神籠る山として信仰された霧島の高千穂には、俗界の土で汚れた草履を新品に履き替えて登るのを常とした。登拝者は、稲穂を携えて登るのが習わしで、途中、霧に覆われて難渋した際には、この稲穂を周辺に撒くと霧が消えると伝えられている。女人禁制のこの山に、慶応2年(1866)、坂本竜馬は、妻お竜を伴って登ったと、姉の乙女に書き送っている。

 女人禁制を竜馬が知らなかったのか、知っていて妻を伴ったのか。次代を先駆けた竜馬らしい話として頷けます。