坂出(さかいで) | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 朝廷の内紛に端を発した保元の乱(1156)で、後白河天皇方に敗れ、讃岐に流された崇徳上皇は、府中(現・坂出市)で、都への熱い想いを次のように詠んだと伝えられている。

「啼(な)けばきく きけば都の恋しさに この里すぎよ 山ほととぎす」

 古代から製塩で知られる坂出の配所で、上皇は無念のまま長寛2年(1164)、46歳で没した。夏の暑さを避けるため、遺体は七十九番札所高照院(こうしょういん)の隣、「八十場(やそば)の泉」に漬け置かれ、白峰山で荼毘(だび)に付されたという。後に二条天皇が、上皇の霊を慰めるために白峯寺(しろみねじ)を造営した。高照院はその別当寺となったことから天皇寺(てんのうじ)の名でも呼ばれ、歴代天皇の崇敬を集めた。

 八十一番札所白峯寺も崇徳上皇ゆかりの寺で、白峰山の中腹にあるこの寺の裏に、上皇が葬られたという白峯御陵がある。生前に上皇と親交を持ち、仁安3年(1168)にその墓を訪れた歌僧、西行は悲嘆の涙を流し、

「みがかれし たま(玉)のうてな(台)を つゆふかき のべ(野辺)にうつして みるぞかなしき」

という歌を残している。

 古代から製塩で栄えた坂出には、「悲運の帝・崇徳上皇」にゆかりの深い社寺が残っている。それは、当時の権力闘争の結果でしょうが、負けた人々の最後は悲しい物語と共に残っています。