久能山 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 標高216mの久能山の頂上には、今から約1400年前の、推古天皇の時代の創建とされる久能寺があった。諸国を行脚していた僧行基が、養老7年(723)に再興したと伝えられる古刹である。

 永禄11年(1568)12月、今川氏真(うじざね)を破って駿河進出を果たした武田信玄は、久能寺を清水市村松の矢部に移し(現・鉄舟寺)、東海道と駿河湾を一望できる久能山の頂に城郭を構えた。山国、甲斐の信玄は、初めて海を手中に収めたのである。西の徳川勢、東の北条勢の動きがつかめる久能山を攻守の拠点とし、今川氏の舟奉行だった岡部忠兵衛貞綱を召し抱えて伊勢の海賊衆を集め、強力な海軍をも編成した。

 しかし、その信玄も、織田信長と雌雄を決する戦いを前に病没して、久能山はしばし主を失った。そして、元和2年(1616)4月、徳川家康が亡くなると、亡骸は、遺命通りにその日の夜、ただちに駿府城から久能山に移され、埋葬された。そして、久能山に詣でた二代将軍秀忠が造営を指示し、本殿は翌3年12月に完成した。死後、家康は朝廷より「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神名を頂き、この地は東照大権現を祭神とする「久能山東照宮」とされたのである。その後、一周忌の折には、亡骸は日光へ移されたが、今も久能山東照宮の本殿裏手の石壇の上には家康廟が建っている。それは、死の床にあってなお西国大名の動向を気にしていた家康の遺命を受けて、西に面して建てられているのである。

 人間は自分の人生に満足してその生を終わることはありません。地位が上がっても、金がふんだんにたまっても、これでいいということはないでしょう。特に、戦国期には、自分が思っていた通りに歴史を塗り替えることは出来なかったので、幸運と共に領土を拡張したからと言って、というより、領土が拡大すればするほど不安になったはずです。そんな意味からも、彼らが「宗教」に向かい、寺社の造営に向かったのも「むべなるかな」。