彰義隊(しょうぎたい) | 徳富 均のブログ

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 1868年(慶応4年)5月15日、彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争。寛永寺を本拠地として官軍と戦った彰義隊は、半日ほどで壊滅し、約2000人の隊士のうち、死者が約300名。この戦いで、寛永寺の伽藍の大半が焼失した。この戦いについて、浦井正明氏(執筆当時、寛永寺執事長・東叡山現龍院住職)が次のように書いています。

 彰義隊は、旧一橋徳川家の家臣を中心に結成され、やがて寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の守護を名目に上野に移った。彰義隊の最初の統率者は渋沢成一郎(後の喜作)であり、5月15日の戦争当日の統率者は天野八郎であった。この二人は、ともに本来の幕臣ではなかった。渋沢成一朗は、明治期の実業家渋沢栄一の従兄弟(いとこ)で、埼玉の深谷の豪農の出身である。幕末に平岡円四郎の推挙で、栄一とともに一橋徳川家の臣として登用された人物である。一方の天野八郎は、群馬の郷士出身で、幕末に一時御家人の養子になったが、まもなく籬籍した人物である。

 幕臣でもない郷士出の二人が、相次いで彰義隊のトップに座ったことを見ても、彰義隊は幕府の軍隊とは言えないだろう。もちろん、一橋家の家臣(本多晋)や幕臣(大久保紀伊守、池田大隅守)も参加していたが、彼らはトップに立っていたわけではなく、いずれも脇役であった。そもそも彰義隊が幕軍というならば、老中や若年寄格がトップに立つのが当然のことだろう。

 明治政府はそのご都合主義によって、すでに彰義隊との戦争前の2月に徳川慶喜の死罪を解き、翌年には朝敵の汚名も外した。また、西郷隆盛にしても、西南戦争からわずか5年後には復権し、最後には明治天皇や伊藤博文らの出金を得て銅像まで造られた。これらは、旧幕臣や不平士族の決起を抑えるための明治政府のやり方であった。

 それに対して、彰義隊への弾圧は過酷なもので、その遺族が上野を訪れることさえ、1873年(明治6年)の暮れまで許されなかったし、彰義隊関係の出版物も翌1874年に初めて許されたほどであった。しかもその出版物はすべて検閲されたうえ、おびただしい伏字や書き替えが行われた。

 1874年、ようやく山王台(さんのうだい)に彰義隊の墓も造られた。(最初のものは、寛永寺の僧2人によって造られた小さなもので、地中に埋められていた)。さらにこの年、旧隊士阿倍杖策(弘蔵)によって、上野戦争の碑文が書かれたが、建碑は不許可となり、明治も末年になってようやく寛永寺本堂(根本中堂)前に建てられた。その時でさえ、260余字の削除と書き替えが要求された。

 これが何を意味したのか。結局、寄せ集めであった彰義隊は、幕軍に対する見せしめとして利用されたのであろう。幕軍と見做していくら叩いても、組織だった反発が出ないことを見越した、明治政府のずるいやり方なのであろう。

 明治維新は、文字通り「勝てば官軍負ければ賊軍」を露骨に表したもので、会津藩にしてもその後の苦労は、並大抵のものではなかった。