府中 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 大御所として徳川家康が府中(駿府・現在の静岡市)に入城したのは慶長12年(1607)7月であった。それから元和2年(1616)4月、家康が75歳でこの世を去るまでのおよそ10年間、駿府は日本の政治と経済の中心であった。

 駿府入城に際し、家康はまず、安倍川の流路変更工事に着手した。甲斐との国境の安倍峠付近を源とする全長51㎞の安倍川。その急流は、2年から3年ごとに氾濫を繰り返していたという。家康は、枝分かれした支流によって町を三つに分断していた安部川の流れを、一つに束ねて西に移した。さらに、関ヶ原の戦いで敵対した外様の雄、薩摩藩に命じ、全長4㎞を越す強固な「薩摩土手」を築かせ、町の防備とした。

 こうして整備が進められ、2年後の慶長14年には「駿府96ヶ町」と呼ばれる「大都市」が誕生した。この年、駿府を訪れたイスパニア(スペイン)人、ドン・ロドリゴは、駿府城下には12万人もの人が住んでいたと記録している。江戸の人口が15万人とされた当時、駿府は大坂、京、江戸につぐ国内有数の大都市であった。

 家康在世中、江戸と駿府の二元政治は良く言われることですが、関ヶ原の戦い以後の家康のご威光は大きななものだったのでしょう。現代の我々には分らないかも知れませんが、戦乱を終局させ、天下を平定するということは、武士にも町人にも、それだけ大きな偉業であったはずです。それは、現代の起業家が企業を大きくするというエネルギーの何十倍にも匹敵するものだったと思います。彼らは、文字通り「命」をかけた行動だったから、失敗は繰り返せなかったはずです。人間、遣り直しが可能ならば、精神的には少しはラクなはずです。