熊野水軍 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 熊野灘に面する紀州は、「海の民」による勇壮な歴史を刻んできた。

 豊富な木材と良港にめぐまれた熊野地方には、古来、海賊でもあった「水軍」が発達した。そして、熊野水軍が名を馳せたのは、12世紀末の源平合戦の期間である。初めは平氏に味方した熊野水軍は、時勢を読んで源氏方に付き、壇ノ浦の戦いでの源氏の勝利に貢献した。

 「海の民」は、太平の近世になると、今度は「捕鯨」で名を高めた。日本における組織的な捕鯨の発祥地は、紀州南端の太子町(たいしちょう)といわれる。この町で慶長11年(1606)に始まった突取(つきとり)法は、一組約40人、漁船4、5艘の刺手(さして)が、従来の矛(ほこ)に替わる銛(もり)で鯨を仕留めたといわれ、これによって大型の鯨の捕獲が可能になった。

 井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』には、「諸人(もろびと)、浪の声をそろへ、笛、太鼓、鉦の拍子をとって、大綱つけて・・・」と、江戸時代の集団捕鯨の様子が描かれている。その先駆けとなったのが、熊野の「海の民」ということである。

 近年は捕鯨も禁止され、日本でも細々と研究用に捕鯨がなされているようです。確かに、自然資源は有限ですから、どこかで「禁止」の措置を取らなければ、資源が枯渇してしまいます。最近のサンマやイワシの漁獲量の減少はそのような先駆けなのかもしれません。人間は、今現在だけを見つめていればよい、というわけではありません。自分勝手は、現在も将来も破滅させる可能性があると、認識しなければならないでしょう。