薩摩藩 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 鹿児島は、鹿児島湾に面した薩摩藩主島津十二代の城下町である。文治2年(1186)の頃、源頼朝により南九州島津庄の地頭に任ぜられ、その後、薩摩、大隅、日向三国の守護となった島津氏は、海上の航路、交易路を掌握し、琉球をはじめ朝鮮などと広く交流した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に与(くみ)し、徳川家康と敵対したが、敗戦後、島津氏は巧みな交渉によって家康と和解し、領地は安堵された。そして、誕生した薩摩藩は、加賀百二万石に次ぐ、七十二万石の大藩となった。幕府の許しを得て、慶長14年(1609)に琉球を事実上支配した島津氏は、その後も積極的に海外交易を推進し、鹿児島湊は琉球を通じて、中国の明などと結ばれた国際港として栄えた。

 この薩摩藩が、日本史の表舞台で脚光を浴びるのは、幕末のことである。江戸の薩摩藩邸で生まれ、「蘭癖(らんぺき・蘭学愛好家)」といわれた曾祖父重豪(しげひで)の薫陶を受けて育った島津斉彬(なりあきら)は、嘉永4年(1851)、43歳で11代薩摩藩主となり、高野長英など当代随一の洋学者と交わった。そこで、西欧の技術力の高さを痛感した斉彬は、費用を惜しむことなく、藩内に西欧の科学技術や諸制度を導入。鹿児島北部にあった別邸(仙厳園)内や近隣で、洋式工場や最新型設備の建設に着手した。おりしも、嘉永6年には、ペリーがアメリカ艦隊を率いて浦賀に来航し、全国に激震が走っていた。後に「集成館」と名付けられたこの洋式工場群には、鉄製大砲を鋳造するための反射炉や溶鉱炉、ガラス工場などが次々に建てられた。斉彬が在位7年半で急逝した後も継承された「集成館」は、西欧から招いた技師をはじめ多くの人が働く、日本最先端の工場群へと発展していった。

 斉彬の政策によって、日本における工業の近代化に先鞭をつけた薩摩藩は、その後、長州や土佐藩などと共に、明治維新をもたらす大きな潮流の一つとなっていった。

 先を読む「先見性」や、良いと思ったことを実行する「積極性」は時代をリードするものです。そのためには、小さな穴の中に閉じこもらず、外界の文物を積極的に取り入れる必要があります。日本にも、世界中の国々の人の中にも優れた人物が数多くいるはずです。生きているうちにそれらを学ばなければ、人間は一体「いつ」学ぶのでしょうか。棺桶に入ってからでは、後の祭りです。