下関(しものせき) | 徳富 均のブログ

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 長州藩の徳川幕府に対する「恨み」は、関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北以来と言える。毛利氏の所領は中国地方10ヶ国から周防・長門の2ヶ国に、しかも居城は日本海側の萩に封じ込められてしまった。領地削減によって長州藩は家臣の数を大幅に減らさざるを得ず、多くの武士が帰農して農民となった。したがって、長州には藩主から農民に至るまで、幕府に反感を抱く者が多くいた。長州藩のこの「恨み」を示すエピソードがある。毎年、元日の朝、萩本丸の大広間で藩主と家臣団の新年の儀が行われる。重臣が藩主に「今年はいかがいたしましょうか」と尋ねる。すると藩主は「まだ、早い」と答える。徳川幕府への積年の恨みを晴らすための開戦を示唆するこの問答は、約260年間、幕末まで続いたと言われている。

 しかし、領地は削られたが、毛利氏は二つの大きな「宝」だけは保持した。それは、三田尻(現・防府市)と下関(赤間関)という良港である。三田尻は瀬戸内海への出口として、萩往還で萩と結ばれ、参勤交代や物資の流通路として利用されてきた。また、本州の最西端にあり、山陽道の起終点でもある下関は、萩と北浦街道、北道筋、中道筋の3本の街道で結ばれていた。九州との結節点であるこの下関は、江戸時代には蝦夷地や北国、西海道(九州)、瀬戸内海からの船、そして外国船も入港する、巨大な交易港に成長していった。

 特に、下関に注目したのは、長州藩での「天保の改革」を行った村田清風である。長州本藩は下関の西の伊崎新地を開拓して直轄地としていたが、清風はここで他国船が運んでくる荷を保管し、それを抵当にして資金を貸し付けるという「越荷方(こしにかた)」と呼ばれる、業務を拡大した。倉庫業と金融業を藩が独占するわけであるから、藩の財政は大いに潤った。その資金が、幕末の尊王攘夷運動の活動や出兵を経済的に支え、さらには洋式兵備の購入に生かされた。

 また幕末になると、藩の交易活動に参画しようとする新興商人が出て来る。その一人が長州の支藩である清末藩出身の廻船問屋白石正一郎である。安政4年(1857)、薩摩藩の実力者、西郷隆盛が、その白石の家を訪れる。下関に薩摩の根拠地を築くためであった。以降、二人は親交を結ぶ。西郷は、白石の抱く薩摩と長州の交易構想を実現させるため、薩摩藩の家老を説き、白石を薩摩藩御用達とする。しかし、薩長交易が始まろうとする直前、長州藩は、支藩の新興商人の参加は不相応という理由で、白石を排除した。白石の野望は挫折したが、一方で、熱心な平田派国学の徒であった白石は、各地の尊王攘夷運動の志士たちを自宅に受け入れ、資金援助なども行い、白石家は尊王攘夷運動の拠点となっていった。

 やがて長州藩は、攘夷運動の先頭をきるべく下関での外国船への砲撃を決定する。文久3年(1863)5月、アメリカ、オランダ、フランス船に対して砲撃が行われるが、翌月には外国艦隊の反撃を受け、長州藩士の正規兵は無残に敗北した。そこで、藩主毛利敬親(たかちか)は、萩で隠棲していた高杉晋作を呼び出して下関防衛を命じる。その時、長州藩の急進派である高杉が思いついたのが、様々な身分からなる「騎兵隊」の創設であった。この騎兵隊をはじめとする諸隊こそが、長州藩の保守派を倒し、幕府の第二次長州征討軍を敗北させる中心勢力となってゆく。こうして、下関は尊王攘夷から倒幕運動への大きな拠点となっていった。

 下関は、赤間関(赤馬関、赤目関)のほか馬関(ばかん)とも呼ばれていた。下関とは近代の呼称で、古くは赤間関と呼ばれていたと思われたりするが、古くから両方の呼称が混在していたようである。

「下関」の名は貞観11年(869)の官符に、すでに見られている。おそらく古代ヤマト政権にとって、本州の「下に位置する関」と言う意味からそう呼ばれたのであろう。下関の東、広島県に近い長島に上関(かみのせき、現・熊毛郡上関町)があるが、ここはもとは竈戸(かまど)関と言った。後に、下関に対応させて上関と呼ばれるようになった。

 赤間(赤目)の名の由来の一つは、赤目竜の伝説である。それによると、山陰道の大竜王が赤い目の竜を山陽道に派遣した。回り道をするのは面倒と、赤目竜は国の中を蹴破って水路を通したといい、そこが港となり、関となったので赤間関と呼ばれるようになったという。また、赤馬とは大船のことを指し、馬が陸を走るように海峡を船が快走するので、赤馬関になったという説もある。

 古代からの水陸の要衝下関が、「西国一の大港」と言われるほどの繁栄を見せるのは、江戸時代になってからのこと。戦国時代から江戸時代にかけて、大型の帆船「千石船」の登場で、陸上輸送に代わって海上輸送が物資輸送の主力となった。江戸時代の航路には、奥羽と江戸を結ぶ東廻航路、江戸と大坂を結ぶ南海航路、瀬戸内航路、九州へ向かう西海航路、奥羽・北陸と大坂を結んだ西廻り航路などがあったが、後者の三つの航路の中継地点、あるいは起終点が下関であった。とりわけ寛文12年(1672)に河村瑞賢が西廻り航路を開いて以降、「北前船」の寄港が下関に繁栄をもたらした。北前船の語源は、おそらく北國・松前と大坂・江戸を結んだ船ということでしょう。この航路の距離は、太平洋岸を廻る東廻航路の約6倍もあった。しかし、太平洋の荒波をゆかねばならず、おまけに良港が少ない東廻航路に比べ、安全、確実な航路であった。

 江戸・大坂への上り船は、米、大豆、海産物、肥料、木材、たばこ、紅花などを、下り船は、茶、木綿、塩、酒、紙、砂糖などを運んだ。これらの荷を積んだ船は、必ずと言ってよいほど下関に寄港した。関門海峡は潮の流れが速く、西廻り航路で最大の難所だったから。上陸した乗組員は休養を取ると同時に飛脚を送り、大坂をはじめ各地の市況に探りを入れた。積み荷を下関で売るか、大坂まで送るかを判断するためであった。こうして下関は、物資輸送の中継基地というだけでなく、商業における情報活動の中心地としての顔を持つようになっていった。

 オランダ商館の医師シーボルトは「下関は、日本で最も繁栄している海港の一つで・・・船の出入りが大変多く、活況を呈している」と、その著『日本』に書いている。下関で蓄積された富と情報が、長州藩を幕末維新の雄たる存在に押し上げた大きな原動力の一つとなったと言える。

 以上は、山口大学名誉教授、小川國治氏の「幕末維新の舞台となった下関は、富と情報の基地だった」より。

 いつの時代でも、「富」と「情報」がその中を変える一つの大きな原動力になっているようです。「武士は食わねど高楊枝」では、所詮、「負け犬の遠吠え」としか判断してくれないのではないでしょうか。