岩国 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。





 5連の秀麗な反り橋、錦帯橋で知られる岩国の城下町は、山口に本拠を構える大内氏の領地であったが、戦国時代に中国地方一円に勢力を広げた毛利氏の支配下に入った。慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、毛利輝元は西軍の総大将となるが、小早川家と並んで毛利氏を支える「両川体制」の一翼吉川広家は、西軍の敗北を見通し、単独で徳川家康に内通、輝元の命に反して東軍に味方した。背信ともみえる広家のこの行動は、主家である毛利氏の存続を図るための危険な賭けであった。結局、輝元は西軍の拠点となっていた大坂城から一歩も動かなかった。

 戦いの後、毛利氏は領国を10ヶ国から周防・長門の2ヶ国に減じられたものの、広家の働きによって断絶を免れることができたのである。毛利氏の危機を救った広家は厚く遇され、玖珂(くが)郡と大島郡のうち3万石を与えられ、東の国境、芸州口を守った。これが、長州藩の支藩である岩国藩の始まりである。

 関ヶ原の戦いの後、広家は錦川に三方を囲まれた城山の頂上に岩国城を築き始めた。錦川を天然の外堀とし、周囲を武家屋敷で固め、対岸の錦見(にしみ)にも武家屋敷を始め、材木町などの町人町を配置した。こうして、周防国の入り口は、毛利の腹心吉川氏を藩主とする岩国藩の城下町として、大きく発展することとなった。人生において

 人生において「右に行くか、左に行くか」で迷うことは少なくありません。そんな時、人は「どちらが楽か」で選択をすることが多いでしょう。それは、それで間違いだとは言いませんが、「楽か」、「楽でないか」だけの判断ではなく、自分の今後の人生において「どちらの道が正しいのか」という判断を入れるべきでしょう。現在の「楽」か「楽でないか」は、実はたいした問題ではなく、将来において「どうあるべきか」、という判断が大切で、そうであれば、現在は苦労をしょい込む方が自分の人生にとってプラスならば、迷わずその方向を選択すべきでしょう。新年度を迎える時期ですが、いろいろ迷い、不安を持っている人がいると思いますが、「今の一瞬間」だけでの判断は間違いを起こしやすいと思います。