エミシ | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

「エミシ」について、熊田亮介氏が次のような文章を書いています。(執筆当時は、秋田大学副学長)

 越後国の北側と陸奥国に一部、現在の秋田・山形両県を含む地域に「出羽国」が置かれたのは、和銅5年(712)のことでした。そのきっかけとなったのは、慶雲2年(705)に起きた陸奥国のエミシの反乱でした。大化の改新後、列島各地へ勢力を伸ばしはじめたヤマト朝廷は、道奥(陸奥)にも拠点となる城柵を次々と造営し、先住・土着していた人々の支配に乗り出します。この頃の出羽や陸奥の北部には、狩猟や漁撈、雑穀栽培を生活の基盤とする続縄文文化と、古墳や須恵器などに代表されるヤマトの文化が混在し、多様な文化、習俗をもつ人たちが生活していました。これらヤマトの王権が及んでいなかった地に住む多様な集団が「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々を構成していたのです。

 これより前、斉明4年(658)から3回にわたって越国(こしのくに・現在の北陸地方一帯)の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、日本海沿いのエミシの地へ遠征を行いました。この時、秋田のエミシの首長が「朝(みかど)に仕官(つかえ)る」と誓ったとされ、比羅夫はエミシたちを大いにもてなしました。各地に置かれた城柵では、朝廷側が食糧などをエミシに与えて懐柔。この地域からは、都で珍重されたアシカやヒグマの皮などを得ました。城柵は一種の「物資の収集センター」ともなっていたのです。

 神亀4年(727)には、渤海国(ぼっかいこく)から初の使節も出羽国に来朝。渤海使は、8世紀だけでも14回日本に来ており、このうち6回は出羽に来着しました。出羽地方の多くの河口には港津が開かれ、日本海を取り巻く半島や大陸、日本列島各地との交流の拠点ともなっていました。

 7世紀から8世紀にかけてのヤマト朝廷のエミシ政策は、城柵を拠点とした懐柔政策が中心でしたが、養老4年(720)、エミシが再び大規模な反乱を起こしたため、神亀元年に即位した聖武天皇は懐柔策を捨て、武力を背景に対応。日本海側の朝廷の最前線基地であった、現在の山形県庄内地方の出羽柵を、一気に約100㎞も北の秋田に移します。さらに、行政単位である郡(こおり)を置いて支配地域を広げたこともあり、帰順するエミシも増えました。帰順したエミシを「俘囚(ふしゅう)」と呼びますが、彼らの中には高い官位を授けられた者も多く、政治は安定するかにみえました。しかし、エミシの社会は必ずしも一枚岩ではありませんでした。

 こうした中、宝亀元年(770)、出羽・陸奥のエミシが連携して蜂起。朝廷は宝亀5年にエミシ征討を決定し、「三十八年戦争」と呼ばれる朝廷とエミシとの全面対決が始まります。エミシは、伊治(これはり)城(宮城県築館町)を襲って陸奥国の按察使(地方行政監察官)紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに東北における朝廷の戦略拠点であった多賀城も落としました。天応元年(781)に即位した桓武天皇は、圧倒的な軍事力による「征夷」へ政策を転換。諸国の軍事力を動員して、国力を挙げての武力侵攻に乗り出し、朝廷軍は数度にわたりエミシを攻めます。延暦21年(802)には征夷大将軍坂上田村麻呂が、エミシの有力な首長阿弖流為(あてるい)を破って英雄となり、弘仁2年(811)には文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が、岩手県北部のエミシを内部分裂を利用して討ったことによって、三十八年戦争はようやく終結したのです。

 この戦いの結果、朝廷の権威が直接及ぶ範囲は、ほぼ盛岡と秋田を結ぶおよそ北緯40度のラインまで北上。これ以北の「夷地」の支配裁量は、北辺の国司に委ねられました。こうしてしばし平穏な時を過ごしていた「夷地」ですが、元慶(がんぎょう)2年(878)、秋田城司の悪政や収奪を原因として、秋田以北の12村を中心としたエミシが、秋田河(雄物川)以北を自らの地とすることを要求して蜂起します。この争乱は1年以上続きますが、一部のエミシが朝廷と通じたため平定されました。およそ200年にわたったエミシの朝廷への反抗は、これでひとまず収束に向かうことになります。

 では、「エミシ」とは、どういう人たちだったのでしょうか。ヤマトに生まれた王権が、エミシという言葉を使った最古の記録は、倭の武王(雄略天皇とされる)が宋の皇帝に送った西暦478年の上表文の中に見えます。中国の『宋書』には、武王は「昔より祖禰(そでい)、躬(みずか)ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し・・・東は毛人を征すること五十五国・・・」と、周囲を平定した自らの武威を述べたと記され「毛人」(エミシ)という言葉を使っています。また、『日本書紀』の神武天皇即位前紀にも「エミシ」という言葉が用いられ、「エミシは一人で百人に立ち向かうと言われているが、われわれには全く抵抗しなかった」という意味の歌が見られます。このエミシとは、現在の奈良県桜井市近くに住んでいた人たちのことで、神武天皇による東征の対象になった「異族」は、全てエミシと呼ばれたのです。ヤマト王権とは異なる文化、習俗を持ち、「東方」に住む異族は全てエミシと呼ばれた。つまり、エミシとは「東方の地に住む勇猛な人たち」という意味だったのですが、これが次第に地域が限られ、軽蔑の意味を込めた「エミシ像」に変わっていきます。

 天武天皇の時代から、大宝律令が制定される8世紀初頭にかけての頃は、「天皇」という称号や「日本」という国号が成立した時期で、国威発揚が強く意識された時代です。天皇の統治には「徳」が求められ、その「徳」を内外に示すには、「異族」が天皇のもとに帰順する必要があったのです。このため、唐の中華思想を真似て、日本の国土の東方と北方に住むエミシを「東夷(とうい)、北狄(ほくてき)」、南島(南西諸島)を「南蛮(なんばん)」とし、これらを服属させて「帝国」を構築しようとしたのです。

 こうして、永らく朝廷に反逆してきた東北のエミシは、「野蛮な民も服属してきた」象徴とするべく、極端な「エミシ像」に仕立てられました。9世紀の高僧空海でさえ、『性霊集(しょうりょうしゅう)』に「虎や狼のように猛々しく、人を食するという悪鬼(羅刹)のようなもの」と記しているほどです。

 9世紀後半のエミシの組織的な反乱が終わってから170年程経った平安時代中期、陸奥国の北部に、朝廷の権威に服さない勢力が台頭します。「東夷の酋長」と自称した俘囚の長、安倍氏です。この地の俘囚たちは、俘囚の長の安倍氏を通じて朝廷に服属していましたが、安倍氏は、現在の盛岡市などを含む陸奥国の「奥六郡」を中心として、国司との対立から朝廷に反旗を翻します。朝廷は、武門の棟梁、源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任命し、その追討に乗り出します。頼義の軍勢は苦戦を強いられ、「前九年合戦」と呼ばれるこの戦いは12年にわたって続きますが、出羽国の清原氏一族が朝廷軍に加勢し、戦いは安倍氏の敗北に終わりました。

 安倍氏滅亡の後、「出羽山北の俘囚主」である清原氏一族の武則は鎮守府将軍に抜擢され、その子、武貞は安倍貞任の妹で藤原経清の妻であった女性を妻に迎えました。その連れ子が清原清衡となります。その後清原氏一族は、永保3年(1083)から「後三年合戦」と呼ばれる一族間の戦いを繰り広げ、源義家の加勢もあって、最終的に清原清衡が勝利します。奥羽の地に君臨した安倍、清原両氏を系譜にもつ清衡は藤原と姓を改め、出羽・陸奥にその後およそ100年にわたる自立性の強い政権を築いたのでした。この奥州藤原氏も、鎌倉幕府を開いた源頼朝と戦い、12世紀末に滅亡します。慶雲2年以来、500年近くにも及ぶエミシと俘囚の反抗はこの時点で終わり、やがて日本列島のほぼ全域が、一つの「国」として統一されていきます。

 ヤマト朝廷によってつくられた「エミシ像」と、まつろわぬ民の地とされた東北地方を蔑む眼差しは、深く沈潜してきたようで、明治維新に際し、朝廷軍とたたかった奥羽諸藩と東北の地が、「白河以北 一山百文」と不当に卑しめられたのも、こうした経緯からかも知れません。

 「勝てば官軍負ければ賊軍」と言いますが、勝った側はどんな非情な、無法な手段を使っても、それを表に著わすことはしないので、負けた側の冷酷さ、残酷さだけが報道されます。それを信じて敗者を非難するのは、当たりません。歴史は、真実を伝えない、という言葉も、又真実でしょう。