珠洲(すず) | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

「白波の 打ち驚かす 岩の上に 寝いらで松の 幾夜(いくよ)経ぬらん」と、文治元年(1185)、能登に流された大納言平時忠は、能登半島の北東、珠洲の配所に着き、あまりの心細さから、涙ながらに先の歌を詠んだと伝えられる。都で栄華の限りを尽くした時忠にとり、この奥能登の最北端の地は、雅な文化とは無縁の辺境の地と思えたのであろう。

 その後、時忠の時代から800年近くを経た昭和43年、北海道の函館で大量の古銭を入れた大甕(かめ)が見つかったことから、珠洲の名が一躍、脚光を浴びることとなった。この大甕の一つこそ、珠洲の地で作られた「珠洲焼」だったのである。この珠洲焼は、高温でいぶし焼き、自然釉(ゆう)を生かした堅牢な灰青色(はいせいしょく)の陶器で、12世紀から珠洲や内浦で焼かれ、15世紀末に突然姿を消したことから「幻の古陶」と言われていた。

 昭和の後半に進められた調査で、珠洲焼は、中世には日用の陶器として、敦賀から北海道南部に至る日本海沿岸地域に流通していたことが判明。珠洲焼は質、量ともに瀨戸、常滑(とこなめ)、信楽(しがらき)、丹波、備前、越前の「六古窯(こよう)」と並ぶほどの陶器だったと、再評価された。

 この珠洲焼は、珠洲や内浦の港から積み出されたが、その主な港の一つが、能登半島の先端からやや下がった三崎町寺家(じけ)の漁港といわれる。中世には塩津(しおづ)と呼ばれた港である。江戸時代後期、塩津の専念寺の住職は、加賀藩にこの港の開削を提案した。荒波を防ぐ堤防を築けば、塩津沖を行き交う大船の入稿も増え、珠洲の地も藩も共に潤うと考えたのだ。しかし、財政難などを理由に、この案は加賀藩の採るところとはならなかった。

 北陸の鬼門を鎮め守るといわれる須須神社が鎮座する地、寺家(じけ)。ここから街道は「外浦」から「内浦」と呼び名を変えて、能登半島の東海岸を南下する。