鰹のたたき | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 鰹は回遊魚で、2月下旬に熱帯域から九州南部の沖合に現れ、その後、黒潮の乗って太平洋を北上する。土佐沖には3月下旬、5~6月には伊豆から房総沖、さらに三陸沖まで移動し、秋口に南下する。これが「戻り鰹」である。

 貝塚などの発掘により、列島の先人は今から約5000年前の縄文時代中期には、すでに鰹を食べていたことが分かっている。

 鰹は「魚」偏に「堅」と書く。その名前の由来は、調理法に関係があるという。『万葉集』には、浦島太郎が鰹を釣ったという長歌が収められ、鰹は「堅魚(かつお)」と書かれている。平安初期の法制度をまとめた『延喜式』(927年)では、「堅魚」「堅魚煎汁(いろり)」などと記されている。沖合で、一本釣りなどの漁法で獲れた鰹は、生食には適さず、乾物にして食べられた。干物はもともと保存食だが、より日持ちさせるために煮てから干した。鰹は煮ただけで堅くなる。それを干すのだから、堅さも半端ではない。その「かたうお」が音便化して「かつお」になった。堅魚は中国では「かつお」を意味しなかったが、日本では「かつお」の当て字にした。また、鰹節を作る際に生じる煮汁をさらに煮詰めたものが「煎汁(いろり)」で、「だし」や「調味料」として使われた。

 今に伝わる鰹料理のほとんどは、江戸時代以降の漁師の船上食に由来している。「たたき」としての食べ方は、寛永20年(1643)刊の『料理物語』に、「生鰹は、さしみ。なます・・・やきてたたきによし・・・」と書かれている。「たたき」の藁焼きは土佐がルーツで、「土佐づくり」といわれ、地元では戦国時代に始まったとされる。土佐沖の鰹は若く、生臭さがきつい。そこで、網の上にのせたり、串に差したりして表面を焼き、皮と身の間の脂質の臭みを飛ばして旨味だけを残したという。表面だけをさっと焼いて中心は生のままという状態に保つために、瞬間に強い火力を出す藁焼きが用いられた。焼き過ぎると焼き魚になり、焼が足りないと生臭さが残る。そして、焼いた節を濡れた布巾で包むか、氷水に浸すなどして熱をさまし、塩、あるいは酢と醤油をかけ、包丁の背で魚の身をよくたたいて味を染み込ませた。これが「たたき」と呼ばれる理由とも言われる。

「目に青葉 山ほととぎす 初ガツオ」の時期はまだ先ですが、江戸っ子は女房を質に入れても初ガツオを食したと言われますが、鰹だけでなく、何でも「旬のもの」は美味しいものですが、借金をしてまで食べようとは思いません・・・。