足摺岬(あしずりみさき) | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 砂岩や花崗岩が隆起してできた3段の海岸段丘。岬の先端は80m近い断崖となって太平洋に落ちている。ここ足摺岬は、古くから辺地(へち)修行の聖地であった。弘仁13年(822)、弘法大師空海は、嵯峨天皇の勅願を受け、自ら千手観音像を刻み、この地に金剛福寺を開創したと伝えられる。寺には、嵯峨天皇の書とされる「補陀洛(落)東門」の勅額が残っている。「補陀洛(ふだらく)」とは、西海の彼方にあるといわれる観音浄土のことで、足摺岬は、室戸岬、熊野那智山とともに、補陀洛へ向かう「補陀洛渡海」の霊地とされ、何人もの僧がこの岬から船出したという。

 鎌倉時代の末、美貌と才気で華やかな宮廷生活を送った後、それら全てを捨て、後深草院二条は30歳頃に尼となり、かねてから私淑していた遍歴の歌人、西行法師に倣い、諸国を遍歴して、『とはずがたり』という日記を残した。その中に、足摺岬の霊験譚を残している。「昔、金剛福寺に、ある修行僧が小僧とともに住んでいた。そこへ、どこからともなく一人の旅法師がやって来た。3人分の食料はとてもないが、小僧は師の目を盗んで毎度、食物を分けてやる。すると旅法師は、『これほどの情け、忘れがたし。さらばわが住みかへ・・・』と小僧を海に誘った。気付いた修行僧が二人の後をつけると、二人は岬の先端から舟に乗って沖へ向かって漕ぎ出した。『我を捨てて、いづくへ行くぞ』と、修行僧が泣きながら問うと、旅法師は『補陀落世界へまかりぬ』と答える。見れば二人は菩薩の姿になっていた。修行僧は、これを見て泣く泣く足摺りをしたので、それからは足摺岬と呼ばれるようになったという」。

 修行僧の涙は、悲しみとありがたさへの涙だったということのようです。