坂本竜馬 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 天保6年(1835)、坂本竜馬は高知城下本町で、郷士、坂本家の次男として誕生。坂本家は酒屋業などを営む土佐藩きっての豪商、才谷屋の分家で、竜馬は曾祖父が買った藩の下級武士の株を子に譲るろうと、竜馬に武士としての教育を施した。

 竜馬が江戸で剣術修業を終え、土佐に戻ったのは、安政元年(1854)で、その前年の嘉永6年(1853にペリー率いる4隻の黒船を見ていた竜馬は、「軍(いくさ)も近き内と奉り候。その節は異国の首を打ち取り、帰国可仕(つかまつるべく)候」と、故郷の父親に手紙を書いていた。そんな竜馬が帰国して、日本の進むべき道について考えるようになっていた頃、絵師の河田小竜(しょうりゅう)と出会う。小竜は薩摩藩の反射炉を視察し、大砲鋳造の知識を得るなど、最新の西洋技術に精通していた。さらに、アメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)からは西洋事情も聴いていた。その小竜は竜馬に、海運の必要性や海外情報入手の重要性などを説いた。この頃の土佐藩は、関ヶ原の戦い以来の内部の矛盾が火を噴き始めていた。土佐は長宗我部氏が長く治めていたが、西軍について合戦に敗れると、遠江国掛川から山内一豊が入国。以来、藩主となった山内氏は、長宗我部氏の遺臣を最下級武士の「郷士」として冷遇した。これに反旗を翻した武市半平太(瑞山)を中心とする郷士が、尊王攘夷を掲げ、文久元年(1861)、幕府とそれにつながる山内氏を倒すため、土佐勤王党を結成。竜馬もこれに名を連ねた。一方、藩主山内豊信(とよしげ・容堂)は、仕置き役吉田東洋とともに公武合体を唱え、新体制を目指していた。

 その後、勤王党の考えに距離を置き始めた竜馬は脱藩。容堂の尊攘派弾圧も次第に激しさを増し、武市は切腹、党は解散となった。

 文久2年(1862)、28歳の竜馬は江戸に軍艦奉行である勝海舟を訪ねた。竜馬は、もし勝が日本の将来に害をなす人物ならば斬ろうと考えていた。しかし、12歳年上の勝の開国論や海防論を聞いて竜馬は共感した。日本が外国と対等に付き合うには、国内を一つにし、海軍を充実させなければならない。竜馬は、即座に勝の門人になった。そして、元治元年(1864)、幕府の許可を得て勝が神戸に海軍操練所を開くと、竜馬は勝の右腕として、諸藩の学生らの教育に当たった。しかし、間もなく勝は失脚し、神戸海軍操練所が閉鎖されたので、竜馬は薩摩藩の支援を得て長崎に「亀山社中」という海運会社を設立。龍馬は航海術を実践し、事業で利益をあげた。その後、亀山社中は海援隊として再編。倒幕の気運が高まる中、慶応2年(1866)、竜馬の仲介により犬猿の仲であった薩摩と長州の間で「薩長同盟」が結ばれた。

 その後、慶応3年(1867)、「船中八策」をまとめた。竜馬から建議を受けた土佐藩は、これをもとに大政奉還の建白書を起草した。この都市の10月、大政奉還。その一カ月後の11月15日、京都の近江屋で竜馬は暗殺された。竜馬、33歳であった。

 新しい知識、発想で新時代を切り開いた坂本竜馬。人間、過去にこだわっていては将来は暗いものとなってしまいます。何も、新しければ良い、というものではありませんが、世の中は絶えず動いているので、立ち止まってばかりでは発展性は閉ざされてしまうのではないでしょうか。