「生」と「老」 | 徳富 均のブログ

徳富 均のブログ

自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 安岡正篤氏は『人物を修める』の中で、日本と中国の比較を次のように述べています。

 日本と中国の国体、民族性の違いを最も簡単明瞭に表せば「生」と「老」であります。日本は生(き)の文明、生(なま)の民族であるのに対して、向こうは老の文明、老の民族であります。老は年を取る、練(ね)れておる、慣れているという意味で、善く言えば老練、老熟、悪く言えば老獪であります。これに対する生は、良い意味においては生一本(きいっぽん)であるが、それだけに、なま未熟であるという弱点を以っております。

 日本と中国のコントラストは、政治においてもその例外ではありません。中国の政治の理想は「王道」でありますが、『書経』にはこれを説いて「王道蕩蕩」と言っております。「蕩」は、スケールが大きい、よく練れている。そして、とろけるとか、くずれててだらしがないという意味です。これに対する日本は「気骨稜稜」と申します。「稜」は、かど、圭角で、日本人はぎくしゃくしたところがあります。かどがあって熟達、練達していないから危ういところがあります。

 儒教は中国に発達したものですから、「王道蕩蕩」思想であり、『論語』にも「君子は坦蕩蕩」といっております。坦は、大道が真っ直ぐに通っているように、平であるという意味です。大まかで鷹揚で、よく練達しているわけであります。しかし、物事には必ず善と悪、裏と表の両面があります。蕩蕩が悪くすると老獪になる。つまり、悪賢くなるわけです。だから、日本人はあまりこういうことを知りませんが、「笑中刀あり」とか、「腹中毒あり」というようなことが向こうでは当たり前のことになっております。人間同士の付き合いにしても、日本人は嫌な奴だとそっぽを向いたりしますが、中国人は老獪で、仲の悪い人間に対してはかえって慇懃丁重であります。そういうことを知らぬために、戦争中もずいぶん向こうを見誤ったわけであります。

 ところが、そういうことが極端に作用しますと、人間関係が険悪になり闘争になる。その大なるものは戦争でありますから、兵法、兵学が発達してまいります。兵家の学問はこの老獪な理法・戦術の学問であります。孫子には「兵は詐(いつわり)をもって立つ」とはっきり書いております。これが兵法というものであり、『孫子』に限らず、『呉子』、『六韜』、『三略』、その他あらゆる兵書を通ずるところの原則であります。唐の太宗といえば、中国歴朝の中でも最も偉大な天子でありますが、その太宗と家来の李靖とのやりとりした『李衛公問対』という有名な兵書で、太宗ともあろう人が堂々と「わしはあらゆる兵書を勉強したが、要するに相手を詐をもって誤らしめる、あらゆる手段で錯誤に陥れる、この一語で十分だ」と言っております。中国の政治、あるいは戦争、政治戦の実体が本当によくわかります。

 日本でも、戦国の武将はこれらの兵法をずいぶん研究しました。日本ではこれを軍学と称し、山鹿素行なども有名です。武田信玄の旗印といえば「風・林・火・山」で有名ですが、これは「其の疾きこと風の如く、其の徐なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」の四句からとったものであります。しかし、本当は六句ありまして、その後に「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と書いてあるのですが、長ったらしいので切ったわけです。これが中国では、今日もなお戦争及び政治の有力な原理になっておるのであります。

 日本人は「お人よし」ですから、中国人の「ほほ笑み外交」に騙されるのです。政治も経済も、他国との間では戦争です。そこには、冷徹な原理である勝利が担保されなくては、国は滅びます。相手に同情しているだけでは、あるいは、相手の言葉に騙されていては自国民の安全や平和、繁栄はありません。日本の周辺には、危険な国がいくつかありますが、それを感じている政治家や企業人がどれだけいるのでしょうか。