江戸の発禁事件 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 江戸の出版業の基礎を築いたのは、徳川家康といわれている。確かに、家康は、足利学校の住職に命じて『貞観政要』や『孔子家語』などを校正して出版するように命じている。また、『吾妻鏡』も活字化して流布せしめている。

 しかし、時代が経つにつれ、江戸中期の『翁草』の著者である神沢杜口(かんざわとこう)が記すように、「次々と学者が本を編纂するようになり、その影響を受けたのか、町人たちの間でも娯楽的な本が出版されて世に充満」し、あげく司直の手が入り、版元や戯作者たちは発禁処分だけではなく、手鎖(てぐさり)、入牢などの厳しい出版統制を受けるようになった。

 江戸中期に流布した『難波戦記』は、豊臣氏滅亡に至る大坂冬に陣、夏の陣の原因と変遷、それに結果を記した戦記物である。その文中、「これは虚説」としながらも、合戦前に徳川家康から豊臣秀頼に送った合戦準備に対する「詰問状」、並びに、秀頼からの『返書』を載せている。その返書には、「父太閤は、私が元服すれば天下を譲ると、全国の大名に起請文(きしょうもん)を出させて誓わせたはずである。・・・しかし、家康殿、あなたは前代未聞の裏切り者だ。すっかり父の厚恩を忘れている」という文言が載っている。ところが、慶安2年(1649)、三代将軍家光の頃、大坂の書肆(しょし)西村伝兵衛なる者が、『古状揃(こじょうそろえ)』として源義経の兄源頼朝に宛てた『腰越状』や、熊谷直実の書状などと共に、この家康、秀頼の二書を載せて出版し、幕府の逆鱗に触れ、斬首の刑に処せられている。なお、徳川時代全般を通して、「豊臣」に関する出版はタブーとされ、元禄11年(1698)、『太閤記』を発行した鱗形屋(うろこがたや)は絶版の憂き目にあい、文化元年(1804)には、美人画で著名な喜多川歌麿も「太閤五妻洛東遊観之図」を描いて入牢3日、手鎖50日の刑を受けた。

 天明8年(1788)、朋誠堂(ほうせいどう)喜三二(きさんじ)こと、平沢常富(佐竹家の江戸留守居役)が著した『文武二道万石通』は、文武を奨励した老中松平定信の施策を諷刺したもので、売れ行きは良好、版を重ねた。だが、当局の忌諱(きい)に触れ絶版。喜三二は、以後戯作の筆を断っている。同じく、『鸚鵡返文武二道』も同工異曲で、恋川春町(駿河小島の江戸留守居役、倉橋寿平)も当局の指導を受け、藩主から圧迫され、寛政元年(1789)、自殺したと伝えられている。

 寛政3年(1791)には、黄表紙作家の山東京伝が『仕掛文庫』など3点を発行して手鎖50日の刑を受け、以後、黄表紙の筆を断っている。また、その発行元の蔦谷重三郎も、身上半減の刑を受けた。

 現代でも言論統制や本の発禁を厳しくしている国が近くにありますが、インターネットの発展で、それらもいずれ無意味になるでしょう。だいたい、国民の不利益を無視し自己の既得権益を守るためだけの施策では、指導者としては失格です。そのような指導者は、即刻退場すべきだと思います。ただしこれは、全ての組織に言える事でしょう。