阿部正弘 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 天保改革を行った老中水野忠邦は、12代将軍家慶によって罷免された。直接の原因は、江戸・大坂周辺10里四方の私領を公領に組み入れるという「上知(あげち)令」であると言われる。水野忠邦に代わり、天保14年(1843)、25歳の福山藩主阿部正弘が老中に任ぜられた。正弘は、寺社奉行のとき、老中の水野忠邦から中山法華経寺智泉院の処断を命じられている。調べてみると、大奥女中と僧侶の間は乱脈を極めていた。追求すれば、大御所家斉の非を暴くことになりかねない。そこで正弘は、前政権の宗教政策の失態に限定して罪を問う、という方針を打ち出し、責任者の日啓、日尚の女犯のみを取り上げ、遠流の刑に処した。そして、寺社奉行の権限内の裁定にとどめ、大奥女中の醜行は摘発しなかった。12代将軍家慶は、この採決を評価し、正弘を老中に抜擢したと言われている。

 正弘の老中就任から1年もたたない天保15年(1844)、水野忠邦が老中首座に返り咲いた。しかし、この復活の理由は分からない。この頃、フランス船が琉球に来航して、通商を求めるなど、外交問題が山積し、家慶は土井利位(としつら)では乗り切れないと判断したのであろう。しかし、正弘は、一旦罷免した者を10ヵ月ばかりで再び登用するするのは、幕府の権威を損なうものであると諫言した。老中首座に返り咲いた忠邦は、町奉行鳥居耀蔵を罷免し、その一党に関係する者を処罰した。しかし、忠邦もその責任を取らされ、翌弘化2年、病気を理由に老中を辞した。正弘も諫言の責任を取り、登城を見合わせていたが、家慶は正弘の気骨を誉め、再三にわたり出仕を促した。そこで、正弘は出仕し、まず、時流に即応するため、外交重視の政策を取った。そのためには、人材を発掘しなければならない。埋もれている優秀な人材を発掘し、抜擢し、海防局の新しい機関につける、という正弘の構想である。正弘は、幕臣に限らず、諸藩の陪臣でも学識があれば登用する。それは、外国事情について議論し、研究するという、画期的な企てであった。また正弘は、必要があれば、外様大名にも積極的に会い、教えを乞うた。例えば、薩摩の島津斉彬に傾倒し、その知識を吸収している。徳川斉昭を政界に復帰させ、海防参与に委嘱したのも正弘である。そして、遂には、祖法を破って開国を断行した。しかっし、安政4年(1857)6月、39歳で病死した。

 人材発掘、人材登用は、いつの時代でも優先されなければならないことで、これがなされなければ、社会は沈滞してしまい、世界の動きについていけなくなるでしょう。能力のある者を活用するのは、上に立つ者の責務です。自己保存だけを考えるのではなく、社会の一員であることを認識すべきだと思います。