新撰組 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 武蔵国上石原(かみいしわら)村(現・調布市)の豪農宮川家から養子に出された近藤勇が、日野宿あたりで盛んであった実践的剣術、天然理心流を継いだのは、文久元年(1861)のこと。門下に集う武芸好きの百姓などの中には、近藤を兄と慕う土方歳三や、天才剣士として知られた沖田総司がいた。士道を究め、いつの日か剣の力で世に出る事を夢見ていた男たちに転機が訪れたのは、文久2年(1862)のことであった。京都の治安維持の為、幕府が浪士隊を募集したのである。

 この頃、幕府はすでに諸外国の要求に応じ、「鎖国」を解いていた。この幕府の対応に反発した志士たちが京都に結集していた。将軍のお膝元であり、幕府への忠誠心の強い多摩郡出身の男たちは、迷わず浪士隊に参加した。近藤は、土方、沖田ら剣士十余人を率いて京に上った。しかし、この浪士隊結成は、出羽庄内の浪士清河八郎が反幕府の尖兵を募るために仕組んだ陰謀であると分かり、近藤らは、水戸藩出身の芹沢鴨率いる一派と合流し、京都守護職にあった会津藩主松平容保(かたもり)の後ろ盾を得て、新たに「新撰組」を結成した。しかし、局長となった芹沢には粗暴な振る舞いが多く、士道を重んじる近藤は、土方と謀って芹沢を暗殺した。この二人が実権を掌握するや、新撰組は、京都に集った幕府に反抗的な志士たちを血祭りにあげていく。

 元治元年(1864)、池田屋を襲撃し、長州藩士ら反幕府の要人7人を斬殺し、数十人を捕縛した。その結果、新撰組の名は一躍、洛中に響き渡った。この「池田屋事件」を引き金に、反幕府の急先鋒である長州藩と、会津藩、薩摩藩などの連合軍とが御所の蛤御紋で衝突。これが「蛤御門(禁門)の変」である。新撰組もこれに参加し、激烈な戦いの末、長州軍を敗走させた。しかし、その2年後の慶応2年、長州藩と薩摩藩が盟約を結び、討幕の機運が高まった。翌年、15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上奏。さらに、王政復古の大号令により、明治天皇を中心とする新政府が樹立され、徳川幕府は瓦解した。しかし、徳川家の権力維持を図る慶喜のもとに結集した旧幕府軍に、新撰組も加わり、慶応4年1月、伏見に出陣した。だが、そこには近藤の姿はなかった。その半月ほど前、新撰組内部の抗争により狙撃され、深手を負っていた。そして、この鳥羽・伏見の戦いでは、近代的な火器を装備した新政府軍が圧勝。もはや剣の時代ではないことを悟った。

 慶応4年(1868)、甲州道中を西に向かう新撰組隊士たちが日野宿辺りにさしかかると、沿道の人々から歓声が上がった。その後、新撰組一行が、「甲陽鎮部隊」の名のもとに、甲府城奪還の為日野宿を発ったのは、その年の3月のこと。しかし、圧倒的に兵力の勝る新政府軍により甲府手前の勝沼で敗れ、下総流山(現・千葉県流山市)に追い詰められた近藤は、覚悟を決めた。自ら投降し、「義を取り 生を捨つるは 吾が尊ぶ所」と、35歳にして、板橋(現・東京都板橋区)にて刑場の露と消えた。結核を患っていた沖田総司も、その後を追うようにして世を去った。生きて鬼と化した土方歳三は、なおも新政府軍に抗して北関東、会津と転戦し、明治2年(1869)、箱館五稜郭の戦いで、流れ弾を受けて絶命した。鳥羽・伏見に始まった戊辰戦争が新政府軍の勝利に終わったのは、土方の死の7日後のことであった。動乱の幕末を剣のみに生き、わずか7年で魂を燃やし尽くした男たち。

 「意地」や「義」に生きた古い男たちの生き様には、いろいろな批判もあるでしょう。現代人のように、「計算ずく」で生きるのが、「損得勘定」でいえば、「得」なのかもしれませんが、「義」とか「面目」、「面子」にこだわる人間には、人間的な魅力があるのではないでしょうか。これは、万国共通するものと言えましょう。