松姫 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 八王子の市街地に、曹洞宗の寺、信松院(しんしょういん)が佇(たたず)む。永禄4年(1561)9月、甲斐の名将武田信玄の四女(一説には、六女とも)として生まれた松姫を開基とする。松姫はわずか7歳の年に、織田信長の嫡子、信忠(11歳)と婚約する。これは当時、絶大な勢力を誇っていた信玄と縁故関係を結ぶための、信長の政略によるものであった。

 ところが、5年後の元亀3年(1572)、遠州三方ヶ原の戦いで、信長が徳川家康に援軍を送ったため、信玄は二人の婚約を破談にした。そしてその後、信玄が病没し、松姫の兄、勝頼も信長に敗れ、武田家は滅亡。松姫は追ってを逃れて横山(現・八王子市)の恩方(おんかた)村にたどり着く。そして、22歳の松姫は、この地にあった曹洞宗の名刹、心源院にて剃髪し、信松禅尼と称した。やがて松姫は庵(いおり)を結ぶ。それが今の信松院である。松姫の美貌は、天下を制した家康が葵紋入りの椀具一式を贈るなどの執心ぶりを見せたほどだという。しかし、松姫は56歳で亡くなるまで、この寺で一族の菩提を弔(とむら)い続けた。

 戦国時代の地位のある女性、家柄の良い女性は、時代の波に翻弄され続けたと言えるでしょう。家を守るためには、政略結婚は当たり前だったのかもしれませんが、現代のように、人間としての尊厳という立場から考えれば、当時は「人格」はないに等しい女性もいたのでしょう。しかし、現代でも、家の為という理由からではなく、金のために人間としての尊厳を捨ててしまっている男女は少なからずいるのではないでしょうか。「強いられた人」と「自己の本能から選択した人」と、どちらが「良い」、「悪い」とは言えないとすれば、「どっちも、どっち」ですが、「強いられた人」に対しては、多くの同情が集まると思います。