第4弾は、現在脚本家としてご活躍されている金沢達也さんです。
— 簡単に自己紹介をお願い致します。
1996年卒、脚本家をやっています金沢達也です。
— まず早稲田の人間科学部に入学された理由は?
本当のことを言っていいですか(笑)?当時演劇がしたくて、演劇だと日大芸術学部とか、あともちろん早稲田が有名だったので、早稲田を受けられる学部はほとんど受けまして、合格したのが人間科学部だったので、そちらに入ることにしました。
— ということは人間科学部を選択されたというより、早稲田に入りたいという思いが強かったのですか?
そうですね。最初はそういう感じで。
— それは早稲田のどこにひかれたんですか?
それは正直言ってしまうと、演劇研究会っていう有名な劇団があって結構業界では有名なところだったので、その後こういうマスコミにいけるんじゃないかと思って(笑)。当時そのまま演劇研究会に入っていたら、同期が堺雅人だったんですよ。
— ということはご入学される前から脚本家とかになりたいと思っていたのですか?
漠然とこういう世界には行きたいと思って、まあとりあえず劇団に入りたいなっていう風に思いまして早稲田に入ったところ、人間科学部だけ合格して、当時どうしようかと迷ったんです。キャンパスも遠くて劇団にも行けないから。でも親に相談したところ、僕と同じ群馬出身の荻原健司さん(元スキー・ノルディック複合選手)も人間科学部だったので、親も行きなさいって言って、それが一番決定的な理由ですね。
— それで演劇研究会には入られたんですか。
結局演劇研究会には最初所沢から2時間半かけて本キャンまで何回か通ったんですが、その時たまたま部室の門を叩いたら誰もいなくて、次の日もたまたまトレーニングとかで部室にいなくて、2-3回目くらいで諦めまして(笑)。それで所沢の方に戻ってきたら、当時野球場は緑の天然芝が敷いてあって、僕昔サッカーをしていたものですから、天然芝を見ると胸が踊るんですよね。それで事務の方に、「あそこは普通の学生も使えるんですか」と聞いたら、「あそこは誰でも使えるのでどんどん自由に使ってください」と言われて、じゃああそこでサッカーをしようと思って、結局4年間所沢キャンパスでサッカーをして過ごしました。
— HUMAN.F.C.の創設者ということで、サークルを作るという活動は大変だったんですか?
学部がらというか僕はスポーツ科学科だったんですけど、最初入学して周りの友達と話してみると、結構みんなサッカーをしていてどっかで対戦した人とかもいて、でも彼らは特に体育会に入るわけでもなく。結構人材が豊富だし、これでチーム作ったらかなり強いなと思いまして、「10年後に日本一になる同好会」を作ろうと思いまして、仲間を集めて作りまして、ちょうど10年後に日本一になりました。
— そのサークルを作る活動を通して、今につながる経験はありますか?
本当にサッカーを追求したり、精神を追求したり、突き詰めていくなら、体育会だと思うんですけど、同好会はどうしても自分たちで運営していかなきゃならないじゃないですか。そうするとやっぱりお金の面であったり、人に来てもらったり、集めるという点でも、かなり自分たちでやらなきゃいけないというところがあるので、自主性とか企画性というものは今振り返ると多少は身についたかもしれないですね。
— サークル活動にも非常に精力的に活動されていたと思うのですが、ゼミはどちらの方に入られたのですか?
僕は当時ある意味名門と言われていたスポーツ社会学の宮内ゼミに入りまして、これも入った理由は正直に言うとよく飲み会が開催されるゼミで、飲み会をクリアしていくと単位がもらえるという、まあ実際そうではないですが(笑)。お酒がすきだったものですから、なかなか他の難しい学問にはついていけなかったのもありまして、これはもうここしかないなと思いまして、決めました。
— スポーツ社会学を学んで今の仕事につながったことはありますか?
偶然なのかはわかりませんが、僕は最初の頃スポーツ番組に入ってたんですよ。サッカー番組とか、それはスポーツ社会学で学んだことだったので、そこからいろんなバラエティー番組とかをやって、それで今の脚本家とかに少しスライドしながらきてるので、きっかけというのは多分ありましたね。
— では入り口になったと
そうですね、やっぱり今こうやって聞いてもらって振り返ると、「あ、何かあったんだな、必然に」と思いますね。
— 今の所脚本家を目指すようになったきっかけというのがなかなか、、、どこで脚本家を目指そうという風に思い始めたのですか?
質問とはそれてしまうかもしれないんですけど、脚本家になる秘訣というのがもしあるなら、僕は脚本を書いてしまうことだと思うんですよ。今いろんな脚本家って、特に若手の方とかはいっぱい勉強して、必死に目指して頑張っているんですけどなかなかなれない人が多い。でも僕頑張ってもないし目指してもないんですよ。逆にそれが強みだったというか、多分今現役の人もそうだと思うんですけど、あまりに目標がはっきりしすぎていて、それがダメだった時、結構挫折しちゃう人が多いじゃないですか。だから僕大学時代からあまり目標をはっきり定めないようにしているんですよ。だから脚本家もあまりなろうと思ったきっかけとか理由とかなくて、気付いたらなっていたというのが正直なところですかね。
— やりたいことを自由にやっていた結果ということですか?
まあもちろん色々な制約もあるし、多少の苦労はしているつもりなんですけど、一番向いている方に流れていったら脚本家になっていたなという感じですかね。
— 少し所沢キャンパスでの学生生活について迫っていきたいのですけど、所沢キャンパスでお世話になった方とかいらっしゃいますか?
やっぱりゼミの宮内先生はお世話になったというか、友達のような付き合い方をしてもらったというのもありますし、卒業してからもよく一緒に飲ましてもらってるんですけど、お世話になりましたね。勉強しなかったのは申し訳なかったですけど、そういう先生だったからこそ、企画性のある卒論のテーマとかをなげてみたり、先生もそれを許してくれたり、それも今につながっているような気がしますね。
— お酒がお好きだということで、学生時代などで何か失敗談とかってあるんですか?
失敗はないですね、まああれだけ面白い授業が揃っている中で、サボってたので色々聞いておけばよかったなって失敗というか小さい後悔はあります。でも、はっきり言って大学時代は無駄な時間だったと思ってるんですよ。でも、僕の持論でもあるんですけど、無駄な時間を無駄とちゃんと把握しているかとか、無駄な時間を過ごした自分が今どうかとか、無駄を無駄と捉えることが大事だし、結構無駄の中に宝があるので、大学時代は本当に有意義な無駄な時間を過ごした時期だなって思いますね。だから失敗はないですね。
— 図らずも所沢キャンパスに通うことになったと思うんですけど、所沢キャンパスのいいところとか好きな場所はありますか?
好きな場所でいうとやっぱり何かを始めたのは野球場なので、1日のほとんどはそこで過ごしてました。あと学食にもいたので、1日のほとんどはグラウンドと学食なので、思い出に残ってますね。カレー、あとサンマ定食とか好きでした。そこでサンマを綺麗に食べるで有名だったんですよ(笑)
— それでは、所沢キャンパスに通う学生たちにメッセージをいただけますか?
特に人間科学部というのはどっちにもふれるともうんですよ。もちろん早稲田としての顔もあるし、また早稲田にはない、人間科学部という特殊な別の顔もあるし。どこの顔で勝負するかというのは使い分けられて、すごくジョーカーのような学部だと思うので、そこを特に社会に出たら、どこでジョーカーを切っていくのかを上手に使い分けていくといいのではないかなと思います。
— そして最後に所沢キャンパス30周年ということで、お祝いの言葉を一言お願い致します。
30年経つんだなと思いましたね。僕が6期だと思うので、それから20数年経つんだなって。もちろんこの業界にいても、結構人間科学部の後輩もあったりしますしすごく活躍されているので、30年経った今、やっとじわじわと浸透してきた学部だと思います。この調子でこれからもどんどん世にじわじわとみんなで一緒に頑張っていけたらいいなと思います。30周年おめでとうございます。
「ムダな時間を大切に!」
ご経験が豊富な方で、話の尽きない和気藹々としたインタビューとなりました。
インタビューにお答え頂き、誠にありがとうございました。
広報局2年 大村文