「BLACK CODES」は、ウィントン・マルサリスのアルバムですね。
兄貴のブランフォード・マルサリスを含む、
クインテットによる最後の録音とかになるのかな。
このあたりから、ブランフォード・マルサリスや
ピアノのケニー・カークランドが、
スティングの活動のほうに移っていくんですよね。
(アルバム「ブルータートルの夢」に参加したり、
ツアーメンバーになったり。)
ともあれ、ずいぶん前から私が本作を聴いていたのも、
スティングでブランフォード・マルサリスの
ソプラノ・サックスがいいなぁと思った流れという話。
(「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」とか。
ずいぶん前に少し当ブログにも書いた話。)
・・・で、当初から特にそう思っていたわけではないのですが、
本作も、60年代のマイルスさんの雰囲気の作品とかよく言われていますね。
う~ん、確かに言われてみれば・・・。
(前回書いた「J MOOD」と同じく、
やっぱりこっちの方が、洗練されて感じるけどね。)
まあ、新伝承派なんて言われるウィントン・マルサリスが、
モダン・ジャズをやるとなったら、
そうなるっていうことなんでしょうね。
結局、アコースティック・ジャズのひとつの到達点というのが、
マイルスさんだったってことで。
一方、本作はそのタイトルどおり、
ウィントン・マルサリスのもう一つの顔である、 ※
黒人としての意識の高さを示す作品だったりもするといわれています。
「BLACK CODES」というのは、
「奴隷取締法」と「黒い和音」という二つの意味をかけているんだそうで。
「BLACK CODES」(1985)
WYNTON MARSALIS(tp)
BRANFORD MARSALIS(ss,ts)
KENNY KIRKLAND(p)
CHAMETT MOFFETT(b)
RON CARTER(b on5)
JEFF WATTS(ds)
※
「もう一つの顔」じゃなくて、連動しているってことみたいですけどね。
黒人は自ら生み出したジャズという音楽をやるべきというところでの、
矜持、特権化っていうんでしょうか。
黒人が名誉を得るには、白人と平等になるのではなく、
黒人の歴史を理解し、それに固執してこそ得られるものだ・・・みたいな。
その点、頭がいいといえばそうですけど、
いまいち好きになれない理屈ではあるかなぁ。
排他的になることで地位を確立するっていうことでしょ。
それって、クラシック音楽において白人がたどった道をなぞっているわけで。
でも、ウィントン・マルサリスは、それに成功したわけですから、
そう考えると、ある文化が永続的な価値として認定されるには、
そんなプロセスもどこかの段階で必要なんだってことなのかもしれません。
なにがしかのアイデンティティとリンクしてこそ、保護されるっていうね。
そして、アイデンティティが「選民意識」と結びつきやすいというのも、
そうだったりするわけで。
(良い悪いは、さておき。)
まあ、そのあたり、一方で、
「ロック」は伝統芸能化しにくいって話に繋がるところでしょうか。
門戸が開いているとか、特権化しにくいとか。
(アイデンティティという点においても、
個人主義的傾向のほうが強いんだろうし。)
むしろ、特権化に対するアンチテーゼみたいな意味で、
評価されている面もあるんだろうし、
前にも書いたように、結局何が「正解」というのもない音楽なんだろうし。
結果、あくまで、個別のバンドやミュージシャンに対しての評価は残っても、
総体として「ロック」という音楽が、
伝統芸能として生き残ることにはならないっていうね。
本質的に水っぽさから逃れられないっていうか、
それこそが本質っていうか。