第六章 2008年~2019年 

   ( 社長業第三期)

 

(74) 倒産による被害

 

「 倒産による被害は付きもの。

    どんなに与信管理をしていても

    それは交通事故みたいなもの、

    焦げ付きが少額で済む事を

    ただただ願うだけ。」

 

かつて何人かの先輩経営者が

同じような事を言っていた。

そうは言っても、

遭遇したくもないのが、

倒産による被害、焦げ付き。

その金額によっては、

会社にとって大きなダメージ

となる。

 

私は32年間の社長業で

その「交通事故」を7回経験した。

いや、経験をしてしまった。

32年間でその7回が多いのか

少ないのか?

この手の話題に関して経営者は、

まず人に伏せるので

定かではないものの

これまで私とこの類の話になった

経営者たちのそれと比較するに、

どうやら多い方ではなさそうだ。

しかもそのうち5社は、

1990年代の社長業初期で

幸い債権も少額だった。

 

これから語る会社の倒産被害は、

そこに至るまでの

私の判断に社長としての

甘さがあった…。

なぜならそれは、

未然に防ぐことが出来た事故で

全て私の温情が招いた

結果だったからである。

 

それは今から約11年前、

2011年12月。

50年以上もの長いお取引の

山形県鶴岡市の卸問屋

(株)両国屋。

長いことトキワでは、

叔父の元専務が

担当していた取引先で、

後に私が引継ぎ、

当時 の担当部長の田澤氏とは

それは入魂の仲となり

元専務の時代よりも

年間の売上を3倍に

伸ばすことが出来た。

この事に関しては、

 

(27)人物 ② ③(番頭) | トキワ人生を振り返る (ameblo.jp)

 

に前述しているが、

当時の販売戦略に、

「同行販売」と称する

戦略があり、

トキワの商品を売り込むために

現地に滞在、

先方の取引先に

担当者と同行をする。

私はこの戦略をR社にも提案、

3日間にわたり

田澤部長と同行した。

つまりその田澤部長とは

朝から晩まで一緒にいるわけで、

しかも滞在中のふた晩は、

部長行きつけの居酒屋で、

時計の針が翌日を差すまで

仕事、家族、趣味や人生について、

多岐に亘り熱く語り合い、

サシで杯を傾けた。

そんなことがきっかけで、

入魂の仲になった。

 

知り合った当初の田澤氏は「部長」。

その後「常務」、「専務」と出世、

のちに「社長」に昇格した人。

グルメや音楽、麻雀、ゴルフ、

プロ野球、大相撲と

趣味が合ったことも

二人の仲を急速に接近させた要因

だったと思う。

仕事に熱く、義理人情に厚い。

利害関係は別にして、

個人的にも深い付き合いを

して来た人だった。

 

そもそもこの会社。

同族の前社長時代、

経理に不適切処理があり、

傾いた会社の再建を田澤氏が

メインバンクからの要請で

後任の社長になった。

要請された時には、

それはかなり悩んだ末の

決断だったと聞いている。

いわば、

「火中の栗を拾いに行く」

ようなもので、

思案中に最後の決め手となったのは

奥様からの一言だったと言う。

 

「 あなた、この会社にいたから

  子供たちを大学まで

  行かせることが出来たのでは?

    今度はあなたがその恩返しを

    しなくてはいけないのでは

    ないでしょうか? 」

 

その 田澤氏が再建を担い、

社長となって

2年が経過したある日。

「 実はこれまで 

    K 社から仕入れていた

    レインウエア関係が、

    今後は現金引換えでないと

    出荷は出来ないと

  言われてしまい…。

    それは資金繰り上、

  とても無理。

    売れ筋商品なので

  止めるわけにもいかない。

    そこでトキワさんが 

  K 社から仕入れて

    うちに転売してもらえない

  ものだろうか?」

という田澤社長からの

お願いの電話だった。

 

K社というのは我々の同業者。

そのK社の商品をトキワが仕入、

両国屋に転売する。

その両国屋が得意先に、

これまで通りの価格で

販売するためには、

間に入るトキワは当然薄利で

転売しなくてはならない。

いや、もはやこれは

トキワとしては商売ではない。

私は「変な男気」を出して

同業K社の社長に

お伺いの連絡を入れた。

 

K 社の社長は、

「トキワさんが間に入るならば」

即答で了承。

その旨、

田澤社長に連絡を入れた。

 

今思えばトキワ同様、

長年取引しているK社が

現金引換えの条件を出すくらい

両国屋には与信上の

エビデンスがあったと思う。

にもかかわらず私は

田澤社長を助ける方に

回ってしまった。

 

結果、

その転売を始めてからの1年間、

両国屋への売掛は増えるも、

支払は滞るように

なっていった。

 

そんなある日。

「 社長、申し訳ない!

    明後日の15日の手形を

    落とすことが出来ない。

    不渡りになってしまう…。

    本当に申し訳ない。」

 

両国屋は倒産。

トキワの焦げ付きは

高額に及んだ。

 

2011年12月13日。

この電話の日付を

私はけして忘れる事ができない。

それは私が親しくお付き合いする

プロ野球選手に集まってもらい

毎年12月に開催していた

「萩原杯チャリティゴルフ」

その前日だったからだ。

参加者の中には、

名古屋の取引先の会長ご夫妻がいて、

前日に上京、

我が家で食事をご一緒する

段取りになっていた。

しかもそのご夫妻にとって、

この時が初参加。

その食事会の件があり、

私が会社を早退しようとする

直前の電話だった。

 

大変な事になってしまった…。

 

そして翌日に迎えたコンペ当日。

私は主催者として、

参加者には終日、

平静を装ってはいたが、

その事件の後始末に、

プレ-最中のゴルフ場から

明日、不渡りになる手形を預ける

金融機関や諸々の処理のために、

会社へ頻繁に連絡を入れた。

ゴルフどころではなかった。

 

この倒産の影響は、

その負債金額からも

トキワにとって大きなダメージ、

しばらく影響を及ぼした。

が、自業自得。

経営者として、

この時の自分の判断は…、

自問自答の繰り返しだった。

 

そこへ追い打ちをかけるように、

この半年後の同業者の会合で

顔を合わせた転売の仕入を

お願いした K 社の社長に

「 トキワさんは分かっていて

    取引を続けたんでしょ。」

ただでさえ自分自身に

腹が立っている時…。

 

取引先が倒産、

そしてその被害を被る。

確かに交通事故みたいな

ものかもしれない。

しかし、この時の私の場合は

前兆ある未然に防ぐことが

できた事故。

問題は、トップである私の

判断ひとつだった。

 

田澤社長が社長になるまでの

それは険しい経緯を

誰よりも知っていた私は、

すっかり「温情」が

入ってしまった。

K 社のようにスパッと

取引を打ち切る事が

経営者としては

正しい判断だったのだろう。

 

しかしこの結末に私は、

未だ不思議な感情を持っている。

それは仮にもう一度、

全く同じ条件下で

お願いをされたとして

私はどうするだろうか?

今度はきっぱりと

断るだろうか?

未だはっきりとした

答えを出せない

経営者失格の私がいる…。

 

既に仕事もリタイヤした

田澤氏とは、

現在でも連絡を取り合う仲。

彼は毎年、

盆暮れに地元の名産品を

欠かさず送ってくる。

物をいただくから

言うわけではないが、

せめてそれが、

私の中では彼を

「人として」認め、

自分自身の「なぐさめ」

になっているのかもしれない。

 

(つづく)