第三章 1983年~1990年 

        (営業部長時代)

 

     (27)人 物 ② ③ 

           ( 番 頭 )

 

最近は耳にすることがなくなった

名称「番頭」。

 

辞書を引くと、

「 番頭とは、

   商家の使用人の最高職位の名称で、

   丁稚(でっち)、手代の上位にあって

   店の万事を預かるもの。

   主人に代わって手代以下の者を統率し、

   営業活動や家政についても

   権限を与えられていた。」

とある。

 

 長い間トキワの主たる取引先として

存在していた全国の問屋業。

私のこれまでの営業活動の中でも

その中心的業態だった問屋には、

「番頭」格の人物が必ず存在し、

同族で経営される会社にあって、

私的には、

「 血縁関係のない使用人で、

    会社への貢献は他を抜きん出て、

    社員の先頭に立ち、

    社長からの信頼も厚い。」

このように定義付けている。

 

これまで私が訪問した問屋では

その「番頭」格が、

活躍している会社が

往々にして業績も良かった。

その会社に訪問する営業マンも

この番頭といかに親しくなるかが、

営業成績を上げるツボでもあった。

そんな当初の下心とは別に(笑)

私が入魂となり、

仕事から離れた現在でも

お付き合いが続いている

2人の元番頭について

綴ってみたい。

 

この2人。

かつての販売戦略のひとつ、

「同行販売」を私とした人たちだった。

トキワの商品を売り込むために、

先方の取引先に2人で訪問する。

1回の同行販売は3日間、

つまり現地に泊まり込みである。

 

四六時中一緒の3日間、

特に車中では公私に亘り

様々な話しをした事が

きっかけとなり、

入魂になった人たちだった。

偶然にもこのお二人同い年で、

私より5歳年上。

 

まずは山形県鶴岡市の

両国屋の田澤政一氏。

私が知り合った当初の肩書は「部長」。

その後「常務」、「専務」と出世、

社長の子息が在職していたにも関わらず

のちに社長まで昇進したやり手。

グルメや音楽、プロ野球、大相撲と

趣味が合ったことも

私たち二人の仲を急速に接近させた

要因だった。

 

仕事に熱く、義理人情に厚い。

仕事関係抜きに、

個人的にも深いお付き合いを

させてもらった人だ。

 

私はこの会社を

前任者の専務から引継いだ際、

これまでの売り上げを

落とすわけにはいかないと、

早々に「同行販売」の

お願いをした。

すると田澤部長(当時)は、

有望な取引先をセレクトして

3日間の同行スケジュールを

組んでくれた。

 

そしてその2泊3日の

鶴岡滞在でのふた晩、

田澤部長行きつけの居酒屋で、

時計の針が翌日を差すまで

仕事、家族、趣味や人生について、

多岐に亘り熱く語り合い、

杯を傾けた。

 

このふたりのコミュニケーションは

 3年も経たずして、

トキワのこの会社における年間売上が

3倍に、という形で表れ、

それは当時、常務取締役経理部長で

我々2人の仲を良く知る社長夫人に

 「 田澤部長、公私混同でねぇか(笑)」

(鶴岡弁)

と、言わしめたほどだった。

 

それから10数年が経過、

この 部長は常務、専務を経て

後に社長へ就任。

その折、二人で飲んだ時に、

しみじみと語っていた事が

今も私の中に強く残っている。

 

「 人間は自分が見えていない。

    実績を上げて行くと、

  会社の信用という

    看板を背負って

    活動しているのに、

    それをあたかも自分の力と、

    錯覚してしまう。

  更に、この会社は自分がいて

    成り立っている…とまで

    本気で思ってしまう。

    社長の下で働いていた

    部長、常務、そして専務時代の

    自分がまさにそうだった。

    ある時、社長に

   『この会社の社長は誰だ?』

    とまで言われた事があったよ

   (笑)

    その後、社長になって

    初めて気付いたことが

    沢山あった。

    中でも特に、最後の責任を

  取らなくてはならない社長は

    物事を多角的に見なければ

    いけない。

    そこへ行くと番頭時代の自分は

    一見、会社の事を考えて

    ものを言っているようで、

    実は自分の想いや考えを通したい

    という個人的な気持ちが強い。

    おごりだった…。

    社長からすると、

    当時の俺は扱いづらかった

   と思うよ。」

 

私はこの田澤氏から

番頭の立場での考え、

そしてその後社長に

なってからの考えと、

私が経験した事のない

双方の立場の違いと本音を聞き、

学ぶことが多かった。

そしてそれはその後

私のこの類の相談相手に、

これ以上ない

打って付けの人となった。

仕事を既にリタイヤした田澤氏とは

現在でもご機嫌伺いの連絡を取り、

盆暮れには季節の挨拶の品を

互いにやり取りしている。

 

前出の栃木県宇都宮市の(株)矢島。

そこの番頭格だった古平博男部長。

私がとてもお世話になった

思い出多きあの会社の部長である。

私の駆け出し時代をよく知る一人で、

偶然にも姉妹高の高校を卒業した

先輩でもあった。

20代の頃の年の差5歳は、

社会人として大きく、

そこにお得意先という

力関係も手伝い、

当時の若い私に対して、

いわゆる「上から目線」だった。

 

自分の会社の社長に対しても、

自分が辞めたら困るだろうという

おごりからか?

外から見ている私も

この2人のやり取りや関係には、

けして良い気持ちを抱けなかった。

 

しかしその後この会社は廃業。

にもかかわらず、

古平元部長は矢島一族と連絡を取り、

現在でも何かと力になっている。

既に利害関係の無い私にも

心配ごとがあるたびに、

連絡をくれる。

 

私はそんな古平氏に

当時とは全く違う一面を見ている。

思えば私は在職中の古平氏の

悪いところに目が行き、

この人の持つ本来の人間性に

目が行かなかった。

そして私への言葉遣い。

私が社長に就任した時を境に

それまでの上から目線的な

口調とは真逆な「敬語」使い。

それは現在でも…。

この変貌は、

おそらく本人の考えあってのこと。

その真意を聞く由もないが、

「情」と「けじめ」を

この人に感じた。

 

「番頭」。

前述の如く、それは会社にとって

とても重要な立場の人間で、

仕事の実績はもちろん、

むしろ人間性が求められると

私は思っている。

なぜなら全ての関係のパイプ役として

上にも下にも更には対外的にも

その影響力は大きいからである。

 

上には、分をわきまえ「おごり」なく、

「けじめ」がきちんとつけられ、

部下である下からは、

時に厳しい事を言って、

煙たがられても

最終的には慕われる事が必須。

そして対外的には会社の顔としての

イメージを担い、

会社の方針に沿った人物であること。

そんな番頭は、

仕事を離れた人生でも

人とのお付き合いが

きちんと続いている。

 

とは言っても、「番頭」に

そのような人間性まで

望んでしまうことは、

「経営者のエゴ」

かもしれない…。

 

(つづく)