▲1975年刊の伝記(1.2)ですが、エッセクス事件などの複雑な政治状況を理解する上でとても参考になりました。ホイッグ史観で書かれています。
エリザベス朝人の歴史観 エリザベス朝人は彼らの記憶に残っている内乱の歴史、すなわちバラ戦争の歴史に深い関心を寄せていた。年代記作者達もまた後世の人々が過去の事件を知ることで、将来の災厄を免れる道を発見できるだろうと考えたのである。それら歴史書の中で特に重要なものとして、HenryⅥからHenryⅧまでの歴史を扱ったEdward Hall(1498?-1547)の『ランカスター・ヨーク両家の統一』(The Union of the two noble and illustre Families of Lancaster and York,1548)とRaphael Holinshed(?-1580?)の『イングランド・スコットランド及びアイルランド年代記』(The Chronicles of England, Scotlande and Irelande,1577)の二作品をあげることができる。
特に後者は16世紀のそれまでの歴史著述の多くを組み入れて編纂されたものである。またこうした歴史は当時韻文物語の素材として度々使われていた。とりわけ1599年に初版が出た『王侯の鑑』(A mirror for Magistrates)は注目すべきものであった。これは幾人かの詩人が寄稿した韻文を集大成したものであった。何回か増補版が出され、1587年に標準版が出版された。王侯・貴族の末路を題材にした没落物語であり、世の支配者や市民達に警告と戒めとを与えるのがその目的であった。この物語集が道徳的意図のもとに編纂されたものであることは、Willian Baldwinは献呈の辞に示されている(p13) 。
32年間におよぶイギリス国内の貴族間の内乱であるバラ戦争(The War of the Roses、1453-1485)によって封建貴族の大部分が没落することになった。Tudor王朝はHenryⅦがボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において最後の勝利をおさめた結果創設されたのであり、それ故HenryⅦはバラ戦争の唯一の生き残りであった。当時のエリザベス朝人にとってバラ戦争は昨日の出来事のように思い出されたのである。内乱による最大の被害者が王座を追われた国王や失脚した政治家ではなく、民衆自身であったことは経験によって知っていた。16世紀後半ともなるとエリザベス女王に後継者がいなかったことも手伝って、自国の歴史に対する民衆の関心は高められ、かくしてこの時代の演劇がそうした人々の関心を最後の段階で満たすことになった。まだジャーナリズムが発達せず、人々が知識を吸収できる最も手近なものが演劇であった。
そして詩人たちが自国の歴史に素材を求めたのと同様に、当時の劇作家たちもまた同じ方向に注意を向け、彼らは英国の歴史の中に間違いなくエリザベス朝人の興味をひく材料があると確信したのである。この時代の歴史劇は、もっと差し迫った切実なものであったのである。そうした歴史劇に心をひかれた劇作家はShakespeareばかりでなく、同時代の作家の中にGeorge Peele(1558-98),Christopher Marlowe(1564-93), John Fletcher(1579-1625),Thomas Heywood(1575-1650)などがいる。
エセックス事件の背景 ElizabethⅠ女王の治世は一面において英国が経済的にも文化的にも著しい成長を遂げた時代であった。しかしその反面この時代が様々な面で不安の時代でもあった。王位継承者も確定しないままに、女王が老衰していくという厳しい現実が人々の心にかげりを与え始めたのである。英国のIreland征伐の失敗とそれに続くEssex伯反乱事件が一層暗い気分に駆り立てた。Earl of Essex(1566-1601)は教養ある武人として女王の寵愛をうけて、廷臣となった貴族であったが、特に彼は対スペイン戦争で大成功をおさめた。
しかしEssex伯の傲慢な態度に、自尊心の強い女王は彼の権勢欲を危険なものとみなし、次第に疎んじるようになった。特に彼が無断でIreland側と休戦条約を結んで帰国したことが女王を激怒させ、その結果Essexは官職と重要な財政源まで剥奪された。こうしたなかでEssex伯は1601年2月8日ついに反旗をひるがえし、女王の暗殺を企てたのである。しかし政府軍の手で粉砕されたEssex伯は2月25日に大逆の罪名をもって処刑された。
このEssex反乱事件は、当時の民衆のみならず劇作家Shakespeareの精神生活の上にも暗い影を投じる要因となった。当時の劇作家は貴族の庇護を求めて生計をたてていたが、ShakespeareもまたEarl of Southampton[1]やEarl of Pembrokeといった貴族に依存していた。ところがそのSouthampton伯がEarl of Essexの一党であり、伯は死刑こそ免れたが終身刑を宣告され、女王の在位期間中ロンドン塔に幽閉の身となった。直接自分の庇護者であったSouthampton伯の失墜はShakespeareに精神的のみならず物質面にも多大の影響を与え、彼の創作活動にも何等かの影響を及ぼしたものと推測されるのである。
[1] Shakespeareは自作のVenus and Adonis (3つの長編詩の1つ)及びThe Rape of Lucrece(ルークリース凌辱』、伝説的な人物ルクレーティアにまつわる物語詩。1594年。)をSouthampton伯に献呈する。
本論稿は、池上忠弘、石川実、黒川高志、金原正彦共著『シェイクスピア研究』(慶應義塾大学出版会)の大要をまとめたものです。私自身の学習を目的としたものですので、論文・レポートなどでの本文からの引用はお控えください。