人間教育に与える体育・スポーツの役割と問題点 | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

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After retirement, I enrolled at Keio University , correspondence course. Since graduation, I have been studying "Shakespeare" and writing in the fields of non-fiction . a member of the Shakespeare Society of Japan. Writer.

 

 現代において人間教育に与える体育・スポーツの役割と問題点について述べる。

 

1.スポーツ、体育とは何か

 

1.1 スポーツとは何か

 

 スポーツの語源は、古代ローマ人が使った中世ロマンス語のdesporterに由来し、英語、ドイツ語、フランス語でも「sport」と書く。この言葉がイギリスに渡りdisportからsportになったとされる。sportという言葉は「心をいやな状態から移す」「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を意味している。

 

 スポーツの歴史を概観すると、人類は狩猟や漁猟のための技術、外敵から身を守るための技術の向上をはかるために、たえず訓練を重ねていた。また、遊びも工夫していたと想像される。そこにスポーツの原初形態を見ることができる。ギリシャ・古代オリンピアの時代から競技(Agon:アゴン)が存在し、オリンポスの神々を崇拝する祭典競技として行われた古代オリンピックでは、競走、走幅跳び、やり投げ、円盤投げなど走・投・跳を中心に競うものが主であった。そこでは、「激しい肉体の競走」によって神を理想とした人間を追求することが目的であった。

 

 中世・ルネッサンスには大規模な競技会は行われなくなったが、スポーツは王侯・貴族から市民の間に浸透していった。多神教の古代ギリシアはキリスト教の一元的支配によって崩壊し、中世の封建時代に移行する下で、スポーツの代表的なものは馬に乗った騎士が長槍で突き合う競技であった。これは神を信仰した身体観を基礎にした競技的なスポーツ文化が軍事的意味を強くもって騎士階層に継承されたことを示すものであった。ジュ・ド・ポーム(テニスの原型)などの娯楽としてのスポーツが農民をはじめ各階層に愛好された。やがて、巧みな技術・技能を発揮するボールゲームや多様な遊びが盛んになり、自己の欲求に従い身体を創造的に、多様に表現した。身体が宗教的な隷属を越えて、自由で自発的な身体運動による民衆のスポーツが発展し、スポーツは遊戯生と競技性の両面を復活することになった。

 

 17・18世紀のスポーツは、専ら狩猟を指した。当時、スポーツの語を使用したのは、長らくイギリスの支配階層を成したジェントリーであった。彼らは自らが所領する森林沼沢での狩猟を最上の楽しみとした。

 

 19世紀に入ると、産業革命と市民革命を経て、イギリスにおけるスポーツの開花によって近代スポーツとよばれる文化の基礎が生まれる。近代スポーツを形成したのは、パブリックスクール(私立の全寮制の中等教育機関)におけるチームスポーツを中心とした運動競技による教育活動であった。そこでは、ジェントルマンとしての人間形成という教育効果をスポーツ、特にゲームに期待し、スポーツによる若者の健全育成が社会の要請となったのである。

 

 こうした流れの中で、1896年、フランスのクーベルタン男爵のよびかけによってオリンピックが復活する。フランス、ドイツ、スウェーデンなどの国家政策的にスポーツが振興された時代を経て、近代オリンピックはヨーロッパを中心に発展することになる。

 

 sportの意味の第一位を占める運動競技がイギリスの植民地政策にともなって、国外に拡散し、世界語となる。我が国においては、大正年間に日本語として定着するスポーツが、「遊び」というのではなく、大なり小なり人格陶冶と関わって論じられることになる。しかし、長らく近代スポーツの基底に据えられてきたアマチュアリズムは後景に押しやられ、それに代わって基礎づけられたのは「限界への挑戦」であった。それは「このイデアの前には、プロとアマの差、社会階層、人種、民族、信仰信条、といった区分法は意味をもたなくなる。我々は、性差さえ超越して人間としての限界に挑む、そうした運動競技をスポーツと認識する時代に生きている」(1)ということを意味するものであった。

 

1.2 スポーツと体育の違い

 

 「体育」は運動や身体に関する教育的な営みのすべてを意味する言葉として使われていた。体育学の立場からは、広義には体育も身体運動文化を意味し、スポーツの文化性を意味する。かつては自発的な運動(スポーツ)への参加が少なく、教育的な意義による運動(体育)への参加が主流であった。このような状況が広義の体育を一般化させたが、社会生活のなかでスポーツに親しむ人々が増大し、体育をより狭義に把握するようになった。つまり、体育は身体にかかわる教育を指し、体育は教える者と教わる者が存在して成り立つ概念関係としてとらえられる。教育的営みの典型は「授業」であり、体育はその教育的場面を通じて総合的に人間の実態に迫るものといえる。 

 

 一方、スポーツはそれ自体が自立的構造をもつ実体概念であり、社会に現象として現れる。スポーツ種目や現象を教材として教育を行うとき、体育となり得る。本来、スポーツは人間の自発的な行為によって自由に行われるものであることから、その行為に必ずしも教育や成果が意識されるとは限らない。真に人間教育の成果を上げるには、体育・徳育のように「教え─学ぶ」というシステムを作って行うことが重要である。

 

2.人間教育に与える体育・スポーツの役割と問題点

 

2.1 体育教育の重要性とその問題点

 

 ヒトは人間という文化的存在になるために教育という環境によって成長する。肉体的な身体の成長のみならず、意志や気持ちなどの精神的要素と一体となった「身」の成長が人間へと導くのである。からだには「(文化を)つくるからだ」「表現するからだ」「感じ、認識するからだ」「他者と交流するからだ」があり、これらをあわせもった「主体としてのからだ」を育てることが人間形成であり体育である。つまり、ヒトはからだの存在を基礎にして、社会における人間という存在になる。したがって、スポーツの文化性もまたからだによって生み出され、からだによって受け継がれてきたといわねばならない。

 

 体育とは、文化の担い手であるからだについて学ぶことである。特に今日におけるからだをめぐる急激な変化を直視するならば、いっそう重要な課題となっている。私たちは、長い通勤時間と疲労、電化製品やライフラインの整備による家事の省力化、小学生からの受験勉強と塾通い、映像文化やIT(情報技術)化による新しい「遊び」の出現、遊び場と遊びの時間、そして仲間が失われたことによる遊びの伝承の消失、さらには、栄養過多、成人病の低年齢化に象徴される健康にかかわる生活リズムの乱れ、緑と土の激減等々、非健康的で歪んだ状況のなかに身を置いている。

 

 こうしたなかで、からだに気づくことで、健康や競技・技術のためにからだを変えることの努力が始まる。自己と他者のからだを認識することで人間相互の理解が始まり、社会性を求める姿勢が生まれる。スポーツの実践という行為のみに漠然とその役割を委ねるのではなく、ヒトのからだを媒介にして具体的に導かなくてはならない。それが体育である。

 

 高橋健夫は『体育科教育学』において、一般に体育教育が軽視されている傾向にあって、体育の発展のためには体育科教育学の改善の必要性を説いている。それによると①研究者の不在(充足することの大切さ)、②授業を対象とした研究方法の開発、③体育科教育法と専門実技の統合(運動教材に則して教授内容や教育方法についての研究・教育)、④現場からの遊離(現場の問題からの逃避)の反省、⑤研究組織の確立、の5点を強調している。児童・生徒・学生の運動への自発的なエネルギーをこれらの改善を通して組織しようとする視座は、体育教育の問題を打ち破る上でのたしかな方向性をもたらすものといえよう。

 

2.2 スポーツの役割と問題点

 

 老若男女が参加するスポーツは、「みんなのスポーツ」「生涯スポーツ」の様相を呈してきている。それじしん、「スポーツの大衆化を歩んでいるのであり、それは人間回復への自然の営みであるとみることができ」る。(2)ところがこのようなスポーツの発展は、一方でチャンピオンシップ・スポーツに代表される著しい記録の向上や技術の発展(スポーツの高度化)を生みだし、他方で日常の生活における健康や美容など多様なスポーツのしかた(スポーツの大衆化)をつくりだしている。このような「スポーツにおける層化現象」は決して望ましいことではなく、この二つをどのように結びつけるかという課題は、今後の日本のスポーツの発展にとって重要になっている。

 

 とはいえ、前述したとおり私たちのからだをめぐる状況の変化のなかで、遊びを語源としたスポーツに親しむことは、人間の本源的な欲求の充足ともに爽快感・達成感・他者との連帯感などの精神的な充足もはかることになる。さらに、体力の向上、ストレスの発散、生活習慣病の予防など、心身両面にわたる健康の保持増進に大きな効果を果たす。特に、子どもたちが豊かな人間性を培い、自ら学び、自ら考えるといった、生きていく上での力量を会得することは不可欠な要素であり、社会全体で取り組まなければならない課題であるといえる。

 

 こんにちスポーツは、その競争性(スポーツの高度化)を著しく進め、勝利至上主義に走ることによって様々な問題が生じている。選手自身の健康を害し、スポーツのフェアプレーに反するドーピング、狂信的なサッカーファンによる暴動(サッカー・フーリガン)、自殺者まで生み出す「国家」を背負わされたトップ選手等々をあげることができる。

 

 走るのが速いか遅いか、シュートがうまいかへたかで子どもの全人格の優劣が競べられるところに競争による人間疎外の源がある。今こそ、体育・スポーツ文化の本質を正しく捉え直し、競争主義を克服しようとするならば、「演技・競技はかけがえのない個性の自己実現・表現としてひとつひとつ他と競べることのできない輝きを放ち、偏狭な競争が克服される。またこの時、文化も、人と人とを序列づけて切り離すものからそれを互いに結びつけるものへと、その本来の姿を取りもどす事ができる」(3)。

 

 <引用文献>

(1) サントリー不易流行研究所編(1992)、『スポーツという文化』、TBSブルタニカ、1992年、229ページ。

(2) 松田岩男・宇土正彦(1978)、『体育科教育法』、大修館書店、3ページ。

(3) 中森孜郎・久保健(1987)、「子どもの生活と体育」(『岩波講座 教育の方法8 からだと教育』)、岩波書店、43.44ページ。

<参考文献>

・カイヨウ R著/多田道太郎・飯塚幹夫訳(1990)、『遊びと人間』、講談社

・サントリー不易流行研究所編(1992)、『スポーツという文化』、TBSブルタニカ

・中森孜郎・久保健(1987)、「子どもの生活と体育」(『岩波講座 教育の方法8 からだと

 教育』)、岩波書店

・「体育科教育法の現状と体育科教育学の課題」(成田十次郎・前田幹夫編著(1987)、『体育

科教育学』、ミネルヴァ書房

・松田岩男・宇土正彦(1978)、『体育科教育法』、大修館書店

・森川貞夫・佐伯聰夫編著(1988)、『スポーツ社会学講義』、大修館書店