「啓蒙主義」「シュトルム・ウント・ドラング」「古典主義」「ロマン主義」小説の変遷 | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

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慶應義塾大学文学部 英米文学専攻(通信教育課程)を卒業後、シェイクスピア『ハムレット』の研究に専念しながら、小説、ノンフィクションなどの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。著書『ペスト時代を生きたシェイクスピア』他。

 

 ▲映画『ゲーテの恋 君に捧ぐ 若きウェルテルの悩み』

 

 

 「啓蒙主義」「シュトルム・ウント・ドラング」「古典主義」「ロマン主義」における小説ジャンルの意味合いと変遷について述べる。

 

1.啓蒙主義における小説について

 

 30年戦争(1618-48)による国土の荒廃の結果、18世紀にはいるとドイツでも文化の中心が僧侶、諸侯の宮廷から学者や市民が活躍する都市に移っていった。啓蒙主義は中世的な制度を盲目的に受け入れるのではなく、社会が抱える矛盾に対して自分自身の理性の目で判断し、社会を変えていこう、というのが基本的な主張であった。

 

 したがって啓蒙時代の文学は基本的には理性の法則にかなうことにつとめ、非現実的で空想的なものを排除しようとした。この時代の文学は啓蒙活動のための教育的役割を担い、市民に道徳的感化をあたえることを目的の一つとしていた。当然、それは小説にも及ぶものであった。イギリスのデフォーが著した『ロビンソン・クルーソ』がドイツ語に翻訳紹介された後、これにならってヨハン・ゴットフリート・シュナーベルが小説『フェルゼンブルク島』(1731-43)を書いた。これは冒険小説であり教訓的なものは少ないが、階級や信仰による争いのない理想的国家の思想をおりこみ、人間社会の進歩を信じる物語でいかにも啓蒙主義時代らしい作品であった。

 

 1740年代には寓話作家クリスティアン・フェルヒテゴット・ゲラートの『寓話と物語集』(1746-48)がもっとも多く読まれた。現世での生活を肯定する明朗さと、敬虔なキリスト教信仰とが適度に調和していた。また彼の書いた長編小説『スウェーデンのG伯爵夫人の生涯』(1748)はドイツで最初の道徳的家庭小説であり、その後の世代のセンチメンタルな家庭小説の流行の先駆けとなるものであった。

 

 劇作家のゴットホルト・エフライム・レッシング(1729-81)と同様に幅広い活動をした人物にクリストフ・マルティン・ヴィーラント(1733-1813)がいる。彼は啓蒙主義、敬虔主義とセンチメンタリズム、それにロココ趣味(バロック文学のもつ深刻で誇張的なものとは対照的で、かろやかで柔軟な詩風が特徴である)という、18世紀ドイツ文学の三つの潮流を一つにまぜあわせた観のある作家である。彼の書いた小説には『ロザルバのドン・シルビオの冒険』(滑稽小説・1964)、『アーガトンの物語』(1767)、『アブデラの人々』(1774-80)などがある。特に『アーガトンの物語』は封建制に縛られない進歩的人間の、官能と理性との調和を目指す人間形成の問題を取り扱ったもので、最初のドイツ教養小説の誕生であり、さらにドイツ古典主義の先駆ともなった。

 

2.シュトゥルム・ウント・ドラングにおける小説

 

 ドイツにおいて1760年代から80年代の初めにかけて「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」と呼ばれる文学運動が盛んになる。これは、明らかに理性のみを尊んだ啓蒙主義への反動であった。合理主義的な理性に対する若い世代の反抗であり、啓蒙主義時代の社会的状況への批判でもあり、理性の名のもとでおさえられていた感情と想像力を一挙に解放する動きでもあった。

 

 この運動の主要な文学形式は戯曲であった。それは熱情のおもむくまま自由で拘束されない表現ができる場は演劇と考えられ、力強い言葉にみちた劇作が若い人々によって書かれた。特に若き日のゲーテとシラーの存在は大きい。ゲーテはやがてシュトゥルム・ウント・ドラングの精神に情熱をたぎらせる者たちの一人となり、1774年、『若きヴェルターの悩み』(1774)が生まれた。これは、自然でありたいと願う人間の、身分階級の差別に対する抗議の書でもあった。圧倒的に戯曲が優勢であったこの時期に名をのこした小説にカール・フィリップ・モーリッツ(1756-1793)の『アントン・ライザー』(1785-90)のような、ルソーの『告白』の影響を受けて、「市民的諸関係によって抑圧された人間の感情」を表現することを目指した自伝的な長編小説もある。しかし、その重要さにおいてゲーテの作品には及ばない。

 

3.古典主義における小説について

 

 ドイツではゲーテのイタリア旅行(1786)からシラーの死(1805)に至る20年間が古典主義と呼ばれる。ゲーテとシラーを「ドイツ文学の古典」として尊重しょうとする機運は、とくに19世紀なかばにおこった。ドイツの国家的統一を望む声が強まる中で、ナショナリズム的な発想でドイツ文学史が次々に書かれるにつれて、いっそうドイツ文学の古典として二人の位置づけが高められた。

 

 古典主義とは、あくまで様式概念、つまり特定の様式の性質をあらわす言葉である。つまり、感情先行のシュトゥルム・ウント・ドラングから形式を重んじ、ギリシア・ローマ古典文学を範とし調和の美を求めたのであった。ドイツ文学の古典主義が叙事文学の理想としたのは古代ギリシアのホメーロスの叙事詩であった。また主人公の内面的な発展を描こうとする「教養小説」が生まれた。ドイツ語のビルドゥングスローマン(Bildungsroman)の訳語である「教養小説」とは、若い主人公が社会との軋轢、葛藤を体験しながら生来の素質を発展させ、個性的人格を形成していく過程を描く長編小説をいう。

 

 前者は『ヘルマンとドロテーア』(1797)、後者に『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1795-96)、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(1821)、共にゲーテの作品が代表としてあげられる。

 

 19世紀に『ヴィルヘルム・マイスター』の影響下に多くの重要な作品が書かれたが、20世紀に至ってもトーマス・マンの『魔の山』(1924)、ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉遊戯』(1943)など、教養小説の伝統が受け継がれている。ゲーテには他に『ライネケ狐』(1794)、『ドイツ人避難民閑談集』(1795)、『親和力』(1809)などの重要な小説がある。

 

 「18世紀後半から19世紀初頭にかけてのドイツ文学の潮流のすべてを一つにとけあわせた作家」(註1)に、ジャン・パウル・リヒター(1765-1825)がいる。彼はロココと感傷主義、古典主義とロマン主義が混ざり合っていた。『アウエンタールの学校教師マリア・ヴーッ』(1790)、『第五学年級教師フィクスライン』(1796)、『貧民の弁護士ジーベンケース』(1796-97)などの初期の小説によって多くの読者を獲得した。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』をモデルとした『巨人』(1800-03)をはじめ『わんぱく時代』(1804-05)、『カッツェンベルガー博士の湯治旅行』(1809)などもある。

 

 これらの作品は、詩や戯曲よりも一段低いものと思われてきた小説の価値を教養ある人々に認識させた。そして、シュティフター、ケラー、ゴットヘルフ、ラーベなど、19世紀の重要な作家たちに少なからず影響をあたえた。

 

 また、叙情詩人であるフリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)は、叙事文学に属する唯一の作品『ヒュペーリオン』は、『若きウェルテルの悩み』とならんで重要な書簡体小説として評価が極めて高い。それは古代ギリシアの詩に手本をもつ頌歌や悲歌の律動をもつ、他に例のない独特な散文であって、ドイツ小説史に異彩を放っているからである。

 

4.ロマン主義における小説について

 

 ロマン主義は、基本的には18世紀の楽天的な合理主義への反動であった。フランス革命につづくヨーロッパ大陸での激動の歴史の中で18世紀の人々がいだいていた人類進歩の確信は大きく揺らぐことになった。全人類の幸福を夢見て希望にあふれていた世界観が覆され未来像に暗い影が投げかけられた。世界を苦痛と感じ、その苦痛から脱出するために自分自身の内側の世界を深く掘り下げようとする傾向が生じた。

 

 しかし、根本においては18世紀が獲得したものを受けついでいた。なぜならロマン主義の文学を生んだのは、啓蒙された市民であり、18世紀の文化が成長させてきた個人主義であったからである。啓蒙主義と古典主義を一面では継承し、他面では否定しようとする、矛盾した性格をロマン主義に負わせたのであった。

 

 ドイツ語で長編小説にあたる語が「ロマーン」Romanであって、時代思潮をあらわす「ロマン主義」Romantikと語源的に密接な関係をもっている。そのためもあって、ロマン主義の人々にとって長編小説の理論は、文学全般に及ぶ理論の基礎となるほど重要な意味をもった。フリードリヒ・シュレーゲルによれば、「『長編小説は、ロマン的書物である』のであり、『長編小説の理論は、それ自体が一編の長編小説になるであろう』という。初期のロマン主義文学の先導者たちにとって、長編小説はもはや特定のジャンルをあらわす概念ではなく、文学の主たる要素を意味する語」(註2)なのである。

 

 古典主義者たちが完成と調和の美を目ざしたのとはまったく対照的に、ロマン主義者たちは、完成ということにあまり頓着しなかった。ドイツ・ロマン主義の代表作とされる散文の分野にかぎってみても、ヴァケンローダー『芸術を愛する修道僧の心情吐露』、ティークの『フランツ・シュテルンバルトの遍歴』等々、未完成に終ったものが少なくない。これは既成の権威を疑い、自身の生み出したものをたえず批判し否定するまでに至るロマン主義者たちの宿命であった。ドイツ・ロマン派に触発された一人にホフマンがいるが、彼の国内での文学的な評価は高くはなかったものの、19世紀ヨーロッパでの人気は高まり、諸国の作家たちに大きな影響を与えた。代表作に『ブランビア王女』、『悪魔の霊薬』、『夜曲集』(特に「砂男」が有名)がある。

 

 ロマン主義者たちは短編小説の形式も愛好し、18世紀末にゲーテが『ドイツ避難民閉談集』で示した手本によって「ノヴェレ」と呼ばれるジャンルが開拓された。ノヴェレは長編小説(ロマーン)のように複数の出来事を並列させるのではなしに、ただ一つの事件を、濃縮し、直線的に、しかも完結した形で描いた。ロマン主義時代に創作された短編小説の多くは、短い散文物語であることを基本的な形式とするメルヘンであるとともにノヴェレでもあり、メルヘン=ノヴェレと呼ばれたりする。

 

 文学の一ジャンルとしてのメルヘンは、民衆の間で口づたえにされる、作者不明の物語で、おとぎばなし、民話などの「民間メルヘン」と、多くの場合、民間メルヘンから形式や素材をかりて創作した「創作メルヘン」の二種類がある。民間メルヘンはシュトゥルム・ウント・ドラング時代に批評家ヘルダーによって民衆の素朴な詩である民謡の価値がみとめられ、ロマン主義時代にはいってアルニムとブレンターノによってドイツ民族の民謡が収集されたのをうけて、ようやく本格的に光があてられることになった。フランス軍の侵入をうけたドイツで、ヤーコブ・グリムとヴィルヘルム・グリムの兄弟が、ドイツ民族の遺産を『児童と家庭のメルヘン集』(1812-15)として結実させた。

 

 これと並行するように、ロマン主義の作家たちがきそってメルヘンを創作した。想像力をはばたかせ、ジャンルの区別を越え、現実と非現実を一つにとけあわせようとするロマン主義者たちにとって制約にしばられないメルヘンの形式はもっともふさわしいものであった。したがって、創作メルヘンの一部が言葉づかいやストーリーの面で児童の鑑賞にたえるという理由で童話とみなされることはあっても、メルへンそのものが童話であると主張する根拠にはならない。

 

<引用註>

1 宮下 46頁。

2 宮下 60頁。

<文献表>

・手塚富雄・神品芳夫 (1993)、『補贈 ドイツ文学案内』、岩波文庫
・宮下啓三(1997)、『近代ドイツ小説』、慶應義塾大学出版会

・星野慎一(1981)、『ゲーテ』、清水書院