複合語の意味の特定化と日・米英における謙遜表現の違い | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

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慶應義塾大学文学部 英米文学専攻(通信教育課程)を卒業後、シェイクスピア『ハムレット』の研究に専念しながら、小説、ノンフィクションなどの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。著書『ペスト時代を生きたシェイクスピア』他。

 

Ⅰ 複合語の意味の特定化

 

複合語とは2つ以上の単語が結びついてできたものである。それは、個々に独立した言葉の意味とは違っていたり、より特定化されること場合がある。以下にその点について例示する。

 

1.複合語の意味の特定化とは、次の2つの文を比較すると実にわかりやすい(井上,100参照)。

 

a. Mary goes to the theater.

b. Mary is a theatergoer.

 

つまり、「劇場に行く」(a)という意味から、「定期的によく行く人」で、同時に「芝居通、芝居好き」という意味合いを持ち、(b)のtheatergoerそのものに付加価値的意味が加わるのである。

このような例は、

 

I ‘m a churchgoer because I enjoy talking with people there every Sunday.

(私は教会によく行きます。教会に通う人たちと日曜日に話をするのが好きです。)

 

ということも同様で、partygoer, concertgoer, musicalgoer, beachgoerなどにもいうことができる。

 

2. 次の2つの文を比較すると、「talk=話す」は「talkative」は「おしゃべりな」という意味の形容詞になり、上記1と同じようにtalkativeに付加価値的意味が加わる。

 

You talk to me.

(君は僕と話す。)

You are a talkative man.

(君は話好きな男だ。)

 

 接尾辞「-tive」がつくことで「いっぱい」の含意がもたらされる。imagineは「想像する」でimaginativeで「想像力のある」となる。poseは「存在」でpositiveで「積極的な、肯定的な」となる。

 

3.次の語は、接尾辞にdogを伴うもので、それぞれの意味が「犬の習性」の一つである群れのリーダーに従う服従本能から由来しており、語形成にも人の生活や価値観が反映されていることを如実に示している。

 

underdog「(生存者競争の)敗北者、(社会的不正の)犠牲者、弱者」

topdog「勝利者、最高位にある人」

yellowdog「労働組合に入らない労働者、密告者」 

 

これらの語は、salad days「世間知らずの青年時代:(若さ・繁栄などの)絶頂、最盛期」(My salad days, when I was green in judgement, cold in blood. (Shakespeare,2175)(あれはまだ私が青二才で、青くさい分別しかできず、熱い情熱を持つこともなかった頃の話だわ)やgreenhornの角が生え始めたばかりの動物にたとえていう「世間知らず、青二才」「初心者、うぶ、かも」(You greenhorn should not talk such impertinence.青いくせに生意気言うな)などにもみることができる。

 

Ⅱ 日本と英米における謙遜表現の違い

 

1.以下の文はKazuo Ishiguroの作品Never let me goからの引用である。ここにも謙遜を伴う表現がある。

 

‘You seem much happier these days, Tommy.  Things seem to be going much better for you.’……‘Yeah, everything’s all right. I’m getting on all right.’……Tommy shrugged. ‘I’ve grown up a bit, I suppose. And maybe everyone else has too. Can’t keep with the same stuff all the time. Get’s boring.’ (Kazuo.23)

 

トミーは「なんだか嬉しそうじゃない、何かいいことでもあったの?」と褒められすぎると感じたのか、相手と対等のレベルに立って、「少しは成長したってことかな。それから、みんなもな。いつまでも同じことやってると飽きるだろうし」と応じる。日本の謙遜のように自分を下げ、相手をあげるということはしない。あくまでも対等の姿勢に貫かれた謙遜である。

 

2.次のbrotherについても対等のレベルに立つという意味では謙遜の一種であると思われる。

 

 “How marvelous to see you!”old Lillian Simmons said. Strictly a phony.“How’s your big brother?”That’s all she really wanted to know.(Salinger,133)

 

英語にはbig brother、elder brother、 younger brother などの表現はたしかにあるが、これは年齢の上下自体が対象となり得る状況での特殊な表現とみられている。日本語では「兄」と「弟」、「姉」と「妹」の区別は一般的であり、それも重要な要素をもつが、英語では基本的にはこうした区別はなく、それぞれをbrother と一語にまとめるのが一般的である。

日本と英米との違いは、日本は伝統的な儒教文化に負うところが大きく、年齢の上下関係を重視する社会的機能や思想が存在しているが、英米ではそのような基軸はうすく、年齢の上下関係は重要視されず、対等であるとの文化的背景がかかわっているといえる。

こうした文化的な違いについては、Inazo Nitobeが著したBushidoにも端的に示されている。

 

In America, when you make a gift, you sing its praises to the recipient; in Japan we depreciate or slander it. The underlying idea with you is, “This is a nice gift: if it were not nice I would not dare give it to you; for it will be an insult to give you anything but what is nice.” In contrast to this, our logic runs: “You are nice person, and no gift is nice enough for you. You will not accept anything I can lay at your feet except as a token of my good will; so accept this, not for its intrinsic value, but as a token, It will be an insult to your worth to call the best gift enough for you.”  (Inazo,111)

 

この一文は贈り物をする際に発するアメリカと日本の言葉の違いの理由について述べたものであるが、アメリカでは、「これはたいへん良い物です。良くない物を贈るのは、あなたを侮辱することになるのですから」と考え、日本人は「この贈り物は、品物に価値があるのではなくて、私の誠意のしるしとしてお受け取りください。どんな最良の品物でもあなたにふさわしい贈り物だというのは、あなたを侮辱することになります」と考える。

アメリカ人は贈り物にした品物の価値について言い、日本人は贈り物をする人の価値について言っている。つまり、「日本の典型的な謙遜は相手や他者よりも自分を下げる謙遜だが、英米の典型的な謙遜は相手より上げられすぎたとき、対等まで降りてくるという謙遜である」(井上、198)。

 

[文献表]

 

*特に出典を示さない例文、単語の意味については、すべて大修館『ジーニアス英和大辞典』に依る。

 

<第一次文献>

Inazo Nitobe, Bushido. 講談社、1999

J. D. Salinger, The catcher in the rye. 講談社、2004

Kazuo Ishiguro, Never let me go. England: Faber and Faber. 2006

Shakespeare, Antony and Cleopatra. Ed. Jonathan and Eric Rasmussen. The RSC Shakespeare. USA. Modern Library.2007

 

<第二次文献>

井上逸兵 『英語学概論』 慶應義塾大学出版会、2019