冬敏之短編小説集『ハンセン病療養所』を読む | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

慶應義塾大学文学部 英米文学専攻(通信教育課程)を卒業後、シェイクスピア『ハムレット』の研究に専念しながら、小説、ノンフィクションなどの分野で執筆活動をしています。日本シェイクスピア協会会員。著書『ペスト時代を生きたシェイクスピア』他。

         

 

 冬敏之の文学の原点

 

 冬は文学にむかわせたモチベーションについて次のように述べている。

 

「手足が不自由で所内作業もできない私には、本をかたっ端から乱読するか、詩や小説などを書くことしでしか、自分の存在を自分に納得させることができなかった」(「学生新聞」01.6.23付)

「人間は自分のために生きるのではなく、みんなの幸せのあめに生きるべきだと考えてきました。そう考えるとき、だれもが人間としての誇りを持って行動できると思います」(同上)

 

「多くの仲間が療養所や社会で非業の死を遂げた。その無念を晴らすために私は書く!」 

「50年も経った現在もなお、私は夢でうなされるのです。心に受けた大きく深い傷には、時効も除斥期間もありません。うなされた日に襲い来る家出と自殺の誘惑に、私は死ぬまでたたかわなくてはならないのです」(ハンセン病国家賠償訴訟第5回口頭弁論での冬の意見陳述から)

 

 いずれも、冬の魂の叫びが聞こえてくるようである。

                                       

 作品批評

 

 9作の短編は読む者の胸をえぐりながらも「魂を、つよくゆさぶらずにはおかない」(本の帯/埼玉大学の清水寛氏)ものがある。「人間が人間として生きるために必要なすべてのもの、人間そのものを守ろうとしたのではなかったか」(「誕生」)――『ハンセン病療養所』に貫かれているものは、この言葉に象徴されているように思う。このことを、作者は静かに語りかける。

対象を冷徹に見つめ、感情を抑えた表現はいっそう迫るものがある。

 

「高原の療養所にて」――いのちのつながりを絶つ行為の残酷さ

 

 この小説をよんで衝撃を受けたのは、あらゆる人間性を呑み込んだ国家によって引き起こされた、ハンセン病患者に対して行った、人のいのちのつながりを断つ行為の残酷さだ。「らい」菌のために神経がおかされた私は、療養所にもどり手術を受ける。術後の経過もよく、「9月の半ばのある晴れた日の午後」、所定の散歩コースを散策していると看護士が壜を二つ抱えてゴミ穴に行くのを目撃する。そのゴミ穴では「人間の火葬」がはじまろうとしている。

 

 林からは蝉の声が響き、近くの準看護学院からはシューベルトの「野ばら」の合唱が聞こえる。ありふれた日常と季節のうつろいは、自然の摂理であるが、その摂理とは相反する胎児の火葬のことが描かれている。

 

「へその緒が、わかめのように伸びて大きな頭の上でどぐろを巻いている」p.14

「頭の一部がアルコール液からつき出ている。34年間そうしていたためか、うすい頭髪の上にびっしりカビが生えている」p.15

 

 彼らのいのちは無残にも虫けらのように消されていった。

 

「ゴム手袋をはめて婦長のぶ厚い掌が、その子の細い首をねじったためであろうか。生まれたその日が死ぬ日であったとすれば、彼らはいったい何のために生命を与えられたのだろう。壜の中で、30数年間アルコール漬になるために、人間のかたちをしているわけでもあるまい」p.p.18-19

 

「胎児たちは壜から投げ出されても、かたくなにその姿勢を崩そうとはしない。両の手足を縮め、背中を丸め、顎を引き、目をつむっている。おそらく、人間の耐える姿勢の基本の姿なのだろう」p.19

 

 胎児の火葬をめぐり、いのちのつながりの尊さを提起するが、そのことは過去の話しとしてとどまるものではなく、現実の生きる姿に重なり胸を打つのだった。本田の自殺、韓国のおばさんの息子への「思いやり」、そして、主人公の自身への次の問いかけは、生きつづけることによって、自らのいのちを確認しようとする“葛藤の勝利”に他ならない。

 

「一刻一刻が苦しみの連続なら、その苦しみから逃れるために命を絶つこともやむを得ないという論理である。私もそう思う。そう思いながらも、何かしらひっかかるものを覚える。そう簡単に割り切ってしまって、それでいいのであろうかという疑問である」p.22

 

「本田の自殺が『死んだ方が幸せだ』として片づけられるとしたら、本田がいままで苦しみぬいたことが無意味になりはしまいか。病苦による自殺を抵抗なく認める側にとって、本人の苦悩はすっぽりと脱けちちている」p.24

 

「父の死」――隔離・差別政策が生み出す悲劇の感情

 

 こどもの「私」が父の死を通して、「らい」と家族の周辺が描かれている。

 

「浩ちゃん、『おとうさん』と言ってあげな」

 

「崎田のおばさんが私をうながした。しかし私はかたくなに黙っていた。病室内の大勢の病人や付添夫が注視している中で父を呼ぶことなど、私には恥ずかしくてできなかった。それに、そのような愁嘆場を演ずるには、私の心は余りにも父から離れすぎていた」p.56

 

「私は目の前の壷に入れられる骨が父の変わり果てた姿であるということを実感しながらも、醜い父の姿を再び見ることもなく、そのことで自分が肩身のせまい思いをすることももはやなくなるであろうことを、むしろ、ある安堵した気持ちとともに味わっていた。父の死を子として悲しむには、私はまだ幼なすぎたし、父が私に残した印象は、醜くいとわしい『らい』の男のそれであった」p.62

 

「私もいつかは死に、父のように、この納骨堂の中へカサカサの骨となってはいるのだ。それまでの何年かを、私は『らい病』として過ごして行かなくてはならない。手を切り、足を断ち、喉に穴をあけられ、病み崩れて死ぬ、その『らい』患者の生きる目的のない生を、私もまた辿り始めている。ようやく満八歳になったばかりの私であったが、自分の将来にもはや何の希望も抱けないことを、ごく漠然とではあったが、海綿が水を含むように自分の体の中へ徐々にしみ透らせていたのだ。……軽すぎる父の死は、その時、私の内部に現実の『らい』の重荷となって残った」p.65

 

と結んでいる

 

 ――子が親を、あるいはまた親が子の姿にこのような感情を持つことなどあろうか、と目を塞ぎたくなる。しかし、ハンセン病患者に対する隔離・差別政策は、こうした悲劇の感情をあたりまえのように生み出すのだ。

 

「私」は、父を忌み嫌い遠ざけようとすればするほど、逆に「らい」という現実が、父の姿が鏡となって覆い被さってくることに気づくことになる。

 

「街の中で」――社会復帰に立ちはだかる差別を告発、その中で苦しむ「私」の内面にも迫る。

 

 私と斉藤とのやりとりから

 

「これまでの経験で、私は相手を怒らせることが、結局は自分の意志をつらぬくことになるということを、体験的に知っていた」233 

 

「待合所を出て私は便所に行った。……(略)」p.p.242-243 

         

 身障者同士がお互いを確認する瞬間、かすかな嫌悪や憎悪を交わし合うことを、私は経験的に知っていた。男とふたたび目が合えば、私と男とは憎み合うにちがいなかった。なぜなら、そこには醜いお互いの分身がいるからである。

 男を追い越して間もなく、背後で押し殺したようなうめき声がした。私の背筋にかすかな戦慄が走った。だが、私はふり返らなかった。人の姿は付近には見えない。私は歩く速度を変えなかった。男は自力で起き上がるべきだ。p.251

 

 人間らしさを失ったこの「私」の冷酷さを非難できるであろうか。人間は追い詰められ、迫害をうけるとそこから抜け出して、光を求めようとするのではなく、逆にさらに闇を探し求める時がある。もっとおおきな、そして残忍な闇に入り込もうとするのである。

 

「その年の夏」――いのちの尊さを、死と生を通して描く    

                    

   26歳の愛子先生の死、やよい、さつき、ヨンタ、斎田とさつきたちは語る。

「どんなに勉強しても、行きつくところは患者代表さ」

「おれたちは、煙にならないと退園できないのさ」

「死は日常的であった」

 

 同じ年に入園したさつきとの交流に、「私」の母への思いが哀しく重なる。

さつきから、「パンツ一枚になった股間に、直立した男性」をやさしく愛撫された私は、それを受け入れる。それは、性の欲望の充足だけではなく「幼い子がやさしい母親から与えられる愛情と同質のものではなかったろうか」と主人公の私は思う。
 

 しかし、ここには「遠い存在であった」母へのねじれた愛情を、さつきとの異常な関係のなかに見つけようとする、少年の、哀しさのあまりの自己救済であるにすぎない。

その後、さつきは退園し郷里の小学校に行くことが決まった。療養所の外で生きるさつきに、私は意を決して応接するのだった。

 

 「退園していく相手には、これからは一切かかわらないのがここでの慣わしだったし、さつきがすでに別世界の人になったのを私は知っていたからだ。/さつきは一度もふり返らなかった」

 

 ハンセン病療養所での生活は、これからを生きる者にとっては決して他人に打ち明けてはならない秘密の場所である。

 

 「ハンセン病療養所」──社会的にも自立する姿を能動的に描写

 

  31歳になる私は、26歳の玲子と療養所で夫婦になるかどうか悩む。「人にはいろいろな生き方があるが、こうした子の面倒を見てやるのも、立派なことだとわしは思う」との年輩の間々田のことばに一瞬心が動かされるが、結局は療養所を去り、社会復帰を果たすのだった。12年ぶりに療養所を訪れた私は、玲子が1年前に、ぽっくりと死んでしまったことを知らされる。

玲子との結婚を拒否し、社会復帰を選択したことに悔いはないが、「それが正しいもので、かつ、人間として恥ずかしくないものであったか否かとなると、私にはまったく自信がない。むしろ、私は、一人の男として卑怯ではなかったという思いを、拭い去ることができない」のだった。

 

 そして、物語りは次のように結ばれる。

 

 だが、私は、もうふり返るのを止めるだろう。そこが永遠の心のふるさとであっても、脱皮した蝉が二度と元の殻に戻れないように、ハンセン病療養所の過去へ戻ることは不可能なのだ。

8月の空はどこまでも高く、濃緑の山々がむせ返る生命力を持って私の眼前に拡がっていた。その緑をぬうようにして、やがて、私の乗るバスが来るはずであった。p.314

 

 ここで、作者は「私」を通して、共生と連帯を療養所という枠を越えて、社会的なスケールで捉えようとする。

 

  そこには、ハンセン病に伴う肉体的・精神的そして社会的苦悩を引き受け、人間が人間として生きるために、今の、現瞬間の人生の意味を問いかけ、未来へ生きようとする「私」の胸を張った姿勢が示される。ここで、「私」の眼前の風景は、自然が「むせ返る生命力」としてあらわれる。「私」が風景を本来の姿として捉えたことによって、「私」の苦悩は希望へと“点火”することを読者に暗示させる。

 

「私の乗るバス」は、二度とハンセン病患者の隔離・差別政策を生み出さない、社会の根本的な変革に向う道へ、確実に走りだしていくに違いない。