公演 ゲーテ「ファウスト」に寄せる期待   | 文字の風景──To my grandchildren who will become adults someday

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After retirement, I enrolled at Keio University , correspondence course. Since graduation, I have been studying "Shakespeare" and writing in the fields of non-fiction . a member of the Shakespeare Society of Japan. Writer.

 

 1999年9月に「ファウスト」の公演(欧州文化首都ワイマール1999、日欧舞台芸術交流委員会主催)を観ました。ここ50年余り、日本ではほとんど上演されてこなかったようです。膨大なあの台詞を役者はどのように暗記し、どう演じるのかと考えると、すくなくても20世紀には観劇することはできないだろうと諦めていました。

 

 1999年はゲーテ生誕250年、その前年の冬にわたしは生誕記念にあやかって小西悟訳の『ファウスト』(大月書店)を求めましたが、まさか「ファウスト」が上演されるとは思いもよりませんでした。公演は3日間の日程で新宿のサザンシアターで行われ、たまたま新聞で知り駆けつけたのでした。

 

 劇場までの道々、胸が高まるにつれ、ファウスト、悪魔のメフィスト、そしてファウストが恋するグレーチヒェンの姿が次々とあらわれ、もうすでに舞台で踊り出していました。 「ファウスト」を読んだのは若い時代、ところどころ音読しながら、作品の解釈をすることもできずに、あの詩を通して心に響く感情をたいせつにしながら読み終えたのでした。特に、「時よとまれ! おまえはじつに美しい」のことばを介してファウストとメフィストとが契約を交わす場面、そしてファウストが再びその言葉を口にしたことにより生命が果てる終章の場面や美しく哀しいグレーチヒェンの像などは何年過ぎても忘れることはなかったのでした。

 

 芝居は2時間30分。それはまるで東京を知らない人に、歌舞伎町だけを案内して「これが東京です」というような大胆な圧縮で、物語はファウストではなくて、むしろ悪魔・メフィストを軸に展開されようです。

 

 幕開けの幻想的な世界に姿をあらわすメフィスト(井上倫宏)は想像通りの上手な悪魔で、そして書物をかかえたファウスト(村上博)が姿を見せるのです。どうもイメージが違いすぎました。ファウストは霊薬を飲んで30歳若返ってからも老人のようで、けっして20代には見えなかったからです。これは違う。わたしが長年抱きつづけてきたものとは違う。

 

ファウストのクライマックスのあの台詞――「……自由の国に自由の民と立ちたいものだ。/その瞬間に向こうてなら、こう言うてよい/『止まれ、おまえはじつに美しい!』……」

ゲーテがもっともたいせつにしていたと言われる台詞なのに、なんとファウストはとちってしまったのです。残念。それにしてもグレーチヒェン(小川敦子)はもっともっと若く凛としているところがなくてはと口惜しく思ってしまいました。

 

難をあげればきりがありません。しかし、ゲーテ生誕250年を記念して果敢に「ファウスト」に挑んだ演出家や役者の志しに心からの拍手をおくります。

 1998年に「ファウスト」の新訳を発表されたドイツ文学者の小西悟氏は「『ファウスト』の新しい魅力」(『民主文学』99.4月号所収)のなかで次のように語っています。

 

 「社会生活上の難しい問題で悩んでいた時に、『ファウスト』が救いになってくれたので  す。『ファウスト』を読んでいれば楽しく元気が出てくるのです。一つ一つの台詞のなかに痛烈な現実批判がこめられていて、しかもそれが美しい詩に結晶しているんですね」

 モラルに真っ向から反するファウストの破天荒な人生を描きながら、それが人々に多様な感動を与えるのですから、文学というのはしみじみ深いものだと思います。

 

 これから先、どのような「ファウスト」の芝居が観られるのか、大きな楽しみの一つとなりました。    

 

      (1997年記。公演では森鴎外訳でしたが、本文では小西悟訳を引用しました)