シェイクスピア(一五六四~一六一六)が残したものは、何一つありません。「え、たくさんの戯曲があるのでは?」との声が聞こえてきそうですが、自筆の原稿はみつかっていません。手紙も、メモも、そして一冊の蔵書も。彼がどこで、何をしていたのかは謎だらけです。幼年期の記録は、六四年四月二六日の洗礼を受けたという日だけです。誕生日が同月二三日というのは推定です。
次は、八二年十一月二八日で、主教から八歳年上のアン・ハサウェイとの結婚が許されたとの記録があります。その後、三人の子どもに恵まれますが、八七年九月、父親の裁判に立ち会った記録を最後に、シェイクスピアは故郷のストラットフォードから姿を消してしまいます。鹿を盗んで故郷にいられなくなった、いや、兵役についたなどの話もありますが、みな伝説です。
「失われた七年間」として知られている空白期間は、九二年に二つの記録によって終止符が打たれることになります。
一つは、当時の興行師ヘンズロウの日記です。彼はこの年三月の第一週に『ハリー六世』がローズ座で上演されたと記し、多くの研究者は、これをシェイクスピアの作品『ヘンリー六世・第一部』のことだと考えています。
二つめは、ロバート・グリーンという劇作家が『三文の知恵』という本のなかで、「成り上がり者のカラス」と揶揄したことを根拠に、その「カラス」とはシェイクスピアのことである、というのが定説となっています。河合祥一郎(東大教授)さんは、『シェイクスピアの正体』の中で、この「カラス」説をひっくり返し、新事実を明らかにしましたが、国際シェイクスピア学会はこれを認めるまでには至っていません。
シェイクスピアの故郷 エイボン川
「研究者の数だけ謎がある」といわれるシェイクスピアの人生ですが、半面、作品にはすべての人々がもつ感情、思考、理念、希望、絶望と恐怖が表現され、読む者の内奥の心に語りかけてくるものがあります。
次回から、作品世界に足を踏み入れてみようと思います。
【余話】
私が拙著『シェイクスピアは「資本論」のなかでどう描かれたか』を出版したことで、シェイクスピアの全戯曲を訳された小田島雄志先生と交流する機会が生まれました。ある時、小田島先生に「ほんとうにシェイクスピアはいたのでしょうか?」と疑問を投げかけたら、「きみ、何を言うか!」と先生に叱られてしまいました。シェイクスピアを愛してやまない先生にとってシェイクスピアの存在を疑うことなど許されないことなのです。