料理の目的は「食卓の向こう側」を見る心の豊かさを養うこと | 愛情料理研究家 土岐山協子の 『食べることは生きること』を発信するブログ

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愛情料理研究家の土岐山協子と申します。私は元々教職に就ておりました。その時に教育における母親の役割の重要性に気付き、日本の国力を上げかつ愛情に溢れた幸せな日本国を作るためには女性が愛情に溢れ、賢く美しくある必要があるのだという考えに至りました。

うちにマグカップがなかったばかりにお椀でコーヒーを飲む羽目になった我が師匠が沖永良部島に来て料理教室をやってくれました。


















今の世の中、沢山の情報が溢れて何を優先したらいいのかがわからなくなっている人が多いのかもしれない。
私はそんな今こそ、台所に立って料理をしようじゃないかと思うのです。

台所は命を作る場所。自分の髪の毛一本さえも、全て食べたものからできている。
その命が、工業製品から作られるのは、安全とか危険の前に寂しいことのような気がします。

断っておきたいのは、料理を作ること自体を目的とするのとは違うということ。料理を通して「食卓の向こう側」を見ることができる心の豊かさを養うことが私は料理の真の目的と思っている。

だから料理ができるからといって心が豊かかというと、そうではない人もたくさんいる。心に寂しさを抱え続ける人は、自分のことで精一杯で、人のことまで考える余裕がない。別にそれは「悪いこと」ではないが寂しいことではある。

寂しさを抱えている人は「食卓の向こう側」が見えていない。それは蔵見学や畑の見学をしたからといってわかるとも限らない。

自分は複数の誰かからの愛を確実に受けているのだと心の底から気づけたときが自立のスタートだと私は思う。
親から愛をもらえなかったと思い込みいじける気持ちもわからなくはないが親は神ではないし神に近い完璧超人でもない。親から完璧な愛がたっぷりもらえる人など皆無と思う。だって愛を受けるための受け皿が、子ども時代にはまだ完成されていないのだから。私だってわからんかったわ。

何のために生きるのか。
私は愛情を受けるための器を作るために人間は生きていると思っている。
そのために傷つき、修復し、強化し、徐々に大きくし、を死ぬまで続ける。

様々を人のせいにしている人は、まだ器の製作段階にも入っていない。人が作った器では生きられないのに、その器をレンタルしたがる。傷つくたびにレンタル屋さんに丸投げし、新しいのを貸せと要求する。いつまでも大人としては生きられない。その状態はとても生きづらいことと思うし、今の社会は生きづらさを抱えた大人風な人が多くいることが問題なのではないかと思っている。不平不満を少しでも抱える人は、皆そうだと私は思う。

料理はどんな人に教わるかがとても大事だと思う。形だけの料理を作るなら私は食卓などむしろ必要ないと思っている。
かおり先生がいっつも愚痴ばかりこぼし、人の陰口を言い、人を見下すような人なら私は先生として大切な友人や子どもに紹介しない。どんなにいい味でもそこに心の余裕が入っていない料理は私は食べたくない。美味しいと言われないから機嫌を悪くするような心で作られたものは、確実に食べ手の心に反映される。そんな子どもをたくさん見ている。

先日の弁当の日
校長先生がわざわざお礼を伝えにいらしてくださった。
私は全くわからなかったが、実は肉が食べられない子がいたという。そして、手に何かベタベタとつくことを極度に嫌う子もいたという。校長先生が、生肉を揉んだ様子を聞いて、驚いたと仰った。



 


弁当の日の翌日、いつも一緒に校長先生は子どもと草むしりをするのだそう。子どもたちはそれぞれ自ら校長先生に自分の体験を報告したそうだ。肉を食べたよ、やけどもしたけど(未報告)全部自分で弁当を作ったよ、家で卵焼き焼いたよ、など。

ベタベタを嫌う子は、草むしりの時に手が土で真っ黒になることを嫌がらなくなったという。

きっかけは弁当の日かもしれないが、その土台にはいつも空気の様にあたたかく子どもを見守るお父さんお母さん、学校の先生の存在があればこそ。

他人の私なんて、おいしいとこだけさらっていく一日限りのドーピング剤。気楽なもんです。

かおり先生のレッスン、早速子どもと作りましたという嬉しいご報告も。
お母さんお父さん、育ての親の台所姿は、一番の食育と思うのです。


土岐山拝