父親の三回忌に思う | 『自炊力は人間力』おだしプロジェクト土岐山協子の〜「自炊はじめよう」ブログ

『自炊力は人間力』おだしプロジェクト土岐山協子の〜「自炊はじめよう」ブログ

おだしプロジェクト代表の土岐山協子と申します。
日々の徒然を書いております。『ゼロからはじめる自炊塾』という、大学生以下無料の料理教室をやっております。料理をする人が少しでも増えたら嬉しいなあ、と思っています。

【父親の三回忌に思う】

忘備録です

私は自分の父親と母親が
「嫌い」という言葉を言うのを聞いたことがない気がする

食べ物や人で苦手なものはそれぞれにあったのかもしれないが、それはわざわざ口に出すことではないという哲学があったのだろうと思う

「嫌い」という言葉を口に出すことは、自分の可能性を狭くすると私は思っている

例えば食べ物でもよっぽど親しい人にならそっと「〜が苦手なんだ」と伝えておくのは必要かもしれないが「私は〜が嫌いなんです」と沢山の人の前で公言することで「ああ、あの人は〜が嫌いだったな」となると、その料理が出る集まりには当然声をかけづらくなる
そこで最高の出会いがあるかもしれないのにだ

また人でもそうで「私は〜が嫌い」とか「あの人が苦手だ」というのもよっぽど親しい人にそっと告げておくぐらいならいいのかもしれないが、SNSなどでも「〜が嫌い」と公言している人や大して信頼関係のない中で自分が嫌いな人の愚痴や文句を言う人をたまに見かけるが、それは確実に自分の首を絞めている行為だと思う
そういう人は「誰かれ構わず攻撃をしますよ」と自らの危険度をアピールしているようなものだからだ
少なくとも私はさほどまだ仲良くない中で人や仲間内の悪口を言ってくる人がいたら、あ、この人は誰にでも人のことを悪く言うのだな、と思いその時点ではその人を信用しない
将来的にその人がその行為を改めたらまた一から人間関係を構築すればよい

昔から「情けは人の為ならず」という諺があるように、自分でしたことは回り回って自分のところに返ってくる
良い行いなら返ってきても良いが「〜が嫌い」と口にした分だけその人は自分が人に嫌われることをわかって口にしているのだろうか

やはり好かれる人をみていると、まず食べ物の好き嫌いが無く、人間の好き嫌いも無い

しかし人間誰しも得手不得手がある
人に好かれる人はわざわざ「嫌い」という言葉を口に出すことをしない大人としてのマナーをわきまえているだけにすぎない

たまになんでもかんでも思ったことを口にすることが正直に生きることだと勘違いしている人がいるが「あれが嫌い、これが嫌い」と言っている数だけ自分が嫌われる要素を増やしていることだけはわかったほうがいい

「〜が嫌い」と公言して良いことは一つもない

『嫌われる勇気』という本がベストセラーになって久しいが、それはわざわざ嫌われるようなことをしろという意味では決してない
「自分に正直に生きる」ことは、自分自身の心に嘘をつかない、というそれだけのこと
それで嫌われたら仕方が無い
世の中には人が幸せであることを喜べない人も存在する
そうした人に嫌われるのは天災のようなものだからね

余計な事を状況や後先を考えずにわざわざ人を不快にする言葉を発する人はそのうち周りに誰もいなくなる
まあ男性女性問わず、若いうちはまだ外見の若さや見た目のメッキ、肩書きや小金などでまだなんとか生きていける
そういう表面的なものに飛びつく人は世の中に沢山いるからだ

しかしそれが全てなくなったとき
老いた肉体を持ち自由に使える小金や自分を支える肩書きがなくなったその時に「〜が嫌い」と言っていた自分は嫌われる側に回ることは肝に命じておくといい
何もなくなった上に人には好かれない人生なんて、私はぞっとする

こうしたことを私は親から直接言われたわけではない
言葉少なな父親だったが、子どもに背中を見せるという生き方をしていたのだろう

父親は苦手な食材があったらしいが、それは娘の私たちも知らない
「お母さんはもちろん知っているけどね」と母親は言うが、もちろん教えてはもらえない
夫婦だけの秘密ということか

「嫌い」をわざわざ口にしないという教えでもあるのかもしれない

私はまだ人生折り返したばかりでまだまだ生き方が荒い
死ぬまでにはもっと心の器を大きくしたいと思う

自戒を込めて

写真は父親の好物だったあんぱんと牛乳です
あんは、粒あんね( ´ ▽ ` )

{5F1F6FA1-937B-4EEB-A88B-EDF38589FA76:01}