私が医療を信用できない理由 | tokaiama20のブログ

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 それは医療関係者に、「医療プロトコール」と呼ぶ、鉄板のような足枷がかけられ、「患者の病気を治してあげたい」する思いやり、意思を強力に阻んでいるからだ。

 医療プロトコル=議定・手順と訳されるが、医療には歴史的に、あるいは学問的に確立された方法論が存在している。もしも、医療が失敗して患者を死なせたときでも、プロトコル(認可された手順)を実行したと認定されるなら提訴されても責任を問われることはない。

 だから医療関係者は、プトロコルに強く依存する。ときにプロトコルが患者を死なせる可能性があっても、医師の頭の中は、治療手順を守ることが第一義となる。
 医療は医療プロトコルを実行するシステムであって、その結果、もしかしたら患者が治療できるかもしれないというのが医療の真実だ。
 プロトコルの基本は第一に検査による病名確定、第二に投薬・注射・手術である。
 これを「医療」と思い込まされている人が、医師や患者の大部分である。 

 私の母は、慢性肺疾患を患い長期入院後に、それまでいたジョイフル名駅を追われて名城近くの老人ホームに転院した。そこでも慢性的に肺不調が続いた。
 担当医は、医療プロトコルに従って95歳の母に肺穿刺細胞診を行った。そして4日後に死亡した。

 私は、これを聞いて、まともな判断能力のある医師なら、95歳で30Kgもないような瀕死の老女に肺穿刺細胞診を行うことは殺人に等しいことを理解しているはずだと思った。
 もしかしたら、ホーム側の意思として、検査に名を借りて母を死なせて追い出すことが目的だったのかもしれないと思った。
 介護にあたっていた妹も、心の底で厄介払いができたという安堵があったのかもしれない。金と手のかかる老人は、自分の両親であっても、早く逝って欲しいと思う潜在意識は珍しくもない。
 
 周囲にいるみんなの総意として、母親は無意味でしかない=つまり病気治療にひとつの価値もない肺穿刺細胞診によって処刑されたと私は考えている。
 世の中、瀕死の老人を介護しながら、「早く死んでくれたら」と心の底で願う人々は、いったいどれだけの割合に上るだろうかと思う。
 ほとんどの人が「タテマエ」やメンツ、社会常識の世界で生きているからだ。

 2014年前後のことだが、私が間質性肺炎=肺線維症を発症して、呼吸機能が半分に落ちてしまい、日常生活のあらゆる場面で息切れを起こして、自分の家もゴミ屋敷のようになってしまった。
 このとき自分に訪れる運命を調べていたとき、治療プロトコルを見て唖然としてしまった。
 ネットの情報によれば、「ブツブツバリバリ」という呼吸音を伴う肺線維症(IPF)患者の大半の余命は、発症から最大5年程度だった。普通は3年くらいで死んでしまう人が多い。

 私は、自分の運命を知って、かなり焦った。しかし、それまでの人生経験で医療の本質について強い疑問を抱いていたので、この情報を真に受けることはできなかった。
 特に、私は放射線生物学をかなり深く調べていたので、診療プロトコルの前段にある病名確定のための放射線検査に強い違和感を感じていた。

 そこには、約30ミリシーベルトの被曝を伴うX線CTや、スリガラス陰影確認のためのX線撮影、そして肺穿刺細胞診が認定診断のための必須条件と記載されていた。
 このデータがなければ、IPFとして認定されず、指定難病としての補助も受けられない。

 私は、ベルクロラ音という肺胞細胞が繊維化するときに出る呼吸音だけで、十分すぎるくらいIPF=肺線維症の診断が可能だと思うのだが、医師たちは、それでは納得せず、患者に大きな負荷を与えずにはおかない、視覚的に十分な特異性が見られる可視的なCTスキャンや細胞診を求め、それがなければ診断確定は不可能と主張していた。
 そこには、患者を治療するよりも、自分たちの学問的成果を確立したいという下心しか見えない。

 だが表向き、30ミリシーベルト程度の被曝であっても、実際には、転院する度や医師の興味本位(データ願望)によって、たくさんのX線撮影を重ねることが多いことを何度も経験している。だから、最悪100ミリシーベルトを超えてしまうこともありうる。
 医師の放射線リスクに対する認識の低さは、311フクイチ事故以来、あらゆる場面で思い知らされてきた。
 IPF患者は、未発症者の数十倍も肺癌発症リスクが高いのだが、この本当の理由は、X線撮影にあるのではないかとさえ私は疑った。

 肺穿刺細胞診は、ステロイド適応を確定するために必要だという。しかし、肺穿刺がサイトカインストームの直接の原因になって死亡してしまったIPF患者も非常に多いと記録されている。
 そもそも、私はステロイドをあまり信用していない。せいぜいムカデ咬傷くらいにしか使っていない。必ずリバウンドがあるからだ。

 「まるで検査に名を借りた殺人行為じゃないか」と私は思い、医療に依存すれば、治るものも治らなくなると確信した。
 公開されているアメリカなどの治験データでは、この種の疾患に本当に効果があるのは、呼吸トレーニングのようなリハビリであるとも書かれていた。

 私は医療の本質は免疫とホメオスタシスだと人生経験から確信していた。
 近代医療が確立するまでは、庶民の大半は、骨折事故でさえ自家治療し、ホメオスタシスに頼って生きてきたのだ。
 私は、当時の医療水準のせいで患者の死亡が多く、平均寿命も短かったという説明には、納得していない。もっと他の社会的要素があったような気がしている。

 患者に強い負荷を与える診断も、投薬も手術も、ワクチンもホメオシタシス免疫システムの前には、無意味で愚かな行為としか思えなかった。
 つまり、ほとんどの病気は医療に頼らずとも治る。医者に行くよりも、毎日8000歩を歩いて体液の循環を行い、太陽光を浴びて免疫を強化することの方が、診断医療よりも病気が治る可能性が高まり、価値が高いように思えた。

 当時、肺線維症治療の主流は、ピルフェニドン・ニンテダニブ・ステロイドだったが、どんな治療をしても進行性で、死を遅らせる効果しかなかった。
 唯一、延命に強い効果が確認されていたのが「呼吸トレーニング」だった。
 そこで、私は自分の呼吸障害について、一切医療に頼らず、ただ呼吸トレーニングだけに頼って、延命自家治療することを決意した。

 たぶん、このおかげで10年もの延命に成功していると思う。
 だが、肺線維症が進行性というのは自分の体で確認している。10年前の発症直後に比べて、現在は、ひどく呼吸能力が落ちて、5年前に歩けたコースが、まともに歩けない。

 とりわけ、年に一度くらい、例えば濃厚な黄砂の直後とか、ユスリカの死骸を吸い込んだり、排煙を吸い込んだときなど、ブツブツバリバリの間質性肺炎の炎症が再発することがあって、これが出ると、もうそれ以前の状態には戻れない。
 サイトカインストームを食い止めるため葛根湯や麻黄湯を服用しながら、どんどん悪化しているのを肌身で感じ、友人、知人に遺言を書いたりするのだが、とりあえず、必死になって歩き回り、死なずにはすんでいる。

 私は、交通事故や帯状疱疹のように手に入りにくい特殊な薬が必要なときを除いて、原則医療を利用することはない。
 医療体制に頼って病気を治すという考え方に、大きな疑問を抱いているからだ。
 病気になれば、診断し確定しない限り、治療が始まらないのが医療プロトコルだ。

 すべては既存の症例、知識のなかで定まった経験則が「治療手順」として確立されデータ化されている。それは、患者を苦痛から救うというよりは、医師や研究者の名誉やアリバイ証明を前提としているようにしか見えない。

 だから、私にとっての本当の医療とは山を歩き回って体液を循環させ、免疫を高める食事をし、ぐっすりと眠ることである。
 薬も必要最小限しか使わない。今使っているのは、痛風予防のアロプリノールやDHAのようなサプリ、ムカデやアブに噛まれたときのステロイド軟膏くらいだろうか?

 ピルフェニドンのような間質性肺炎治療薬を服用するより呼吸トレーニングの方が何百倍も効果があると確信している。
 これは辛い坂道を上って、思い切り呼吸することだ。私が発症した当時、メディアに出た肺線維症患者で、生き残っている人を知らない。みんな医療に頼ってしまったことが命取りだと思う。

 ただ自分とホメオスタシスだけを信じて、体液を循環させ、免疫を高めれば生き残っていられたのにと思わざるをえない。
 癌などの病気でも、私は医療に頼るつもりはない。肺線維症の肺癌発症率は健常者の20倍に及ぶデータがあるが、私には放射線被曝による「医原病」にしか見えないのだ。
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医原病
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E5%8E%9F%E7%97%85

医療行為が原因で生ずる疾患のこと。「医源病」「医原性疾患」も同義。
  1.臨床的医原病、2.社会的医原病、3.文化的医原病の三つの段階を経て、現代社会に生きる我々を侵食する病のこと(社会学者イリッチの提唱した概念。広義の医原病)

 古代ギリシャの時代より、医者が患者を害する可能性は知られていた。19世紀の西洋では医師が、細菌のことや消毒のことも知らず、細菌に汚染された手で患者や妊婦に触れたので、患者や妊婦への細菌の伝播が起こり、患者や妊婦は高い確率で死亡していた。現代の日本でも様々な医原病が起きている。

医療は他の様々な技術同様に、常に発展途上で不完全であり、医療関係者の意図にかかわらず、医療行為によっては患者を害する可能性がある。
医原病の中には発生とほぼ同時にそれと判明するものもあるが、発生から長い年月を経て医療技術が進歩し新しい見地が発見された後にようやく、従来の医療行為がなんらかの医原病の原因を作っていたと判明することもある。

原因としては、医療器具、医薬品、医療材料の他にも、医師による誤診、医療過誤(不適切な薬物選択、不適切・未熟な手術、検査など)、院内感染等々が挙げられる。(→#原因別)
また、社会学者イリッチによって、医原病とは臨床的医原病、社会的医原病、文化的医原病の三つの段階を経て、現代社会に生きる我々を侵食する病のこと、ともされている。

パストゥールが細菌を発見する以前、19世紀中ごろまでの西洋の医学会では、清潔や不潔という概念も浸透しておらず、消毒法も確立していなかった。手術に医師は血に汚れたフロックコートを着て臨むなどし、患者らの傷口は細菌に汚染された共用の「たらい」の中の水で洗われ、患者間での細菌の伝播が起こった。
医師のなかには「傷が治るためには膿がでることが必要だ」などと思っていた者も多かった。1867年の統計では、手足切断手術後の死亡率はチューリヒで46%、パリでは60%に及んだという。

お産についても当時は医師が、「死亡した産婦の解剖をして産婦の子宮からでる膿にまみれた手で次のお産に立会ったので、産道から細菌が入って子宮内感染症、敗血症になって(産褥熱)死亡する産婦が多数いた。
その死亡率は10%以上にもなった。イグナーツ・ゼンメルワイス(1818年-1865年)は、まだ病原菌などの概念が無い時代であったにもかかわらず、今日で言う接触感染の可能性、医師自身が感染源になっている可能性に気づき、産褥熱の予防法として医師がカルキを使用して手洗いを行うことを提唱した。だが、医学会はそういった彼の善意からの指摘を認めず、逆に当時の医師らは彼を迫害するような行動をとった。

1977年9月、ソークワクチンの開発者のジョナス・ソーク博士は、議会で次のように指摘した。
1970年代初めにアメリカで発生したポリオのほとんどは、アメリカで使用されているポリオ生ワクチンの副作用である可能性が高い。

つまりポリオ撲滅の功労者とも言われるソーク自身が、犠牲者を出し続けたポリオの原因が、そのワクチンにあると認めたのである。実際、アメリカ合衆国では生ワクチンが使われたためポリオが発生したが、フィンランドとスウェーデンのように死菌ワクチンを接種していた国ではポリオの発症はまったく報告されなかったという。

1976年にブタインフルエンザが大流行した時に行われた予防接種について、政府とマスコミが徹底的に追跡調査してみたところ、ワクチンが原因でギラン・バレー症候群(両足の麻痺や、知覚異常、呼吸困難などを引き起こす急性多発性神経炎)が565件も発生し、予防接種を受けてから数時間以内に30人の高齢者が"説明不可能な死"を遂げていたことが判明した。

太平洋戦争中、日本では腸チフス・パラチフスのワクチンは軍隊などでも接種され死亡などの事故が起きていたが、そのような事故は軍隊の不名誉として隠蔽された]。
1940年代後半には、種痘は実施後に脳炎を起こす事例が頻発することが医師の間では広く知られるようになり、「種痘後脳炎」と呼ばれた。その被害規模は無視できない数にのぼり、1947年と1948年の強力痘苗だけに限定しても、犠牲者はおよそ600人と推計されており、天然痘のこの2年間の患者数405人を超えてしまっていた。

日本においては、種痘事故や腸チフスの事故が多数発生していたころ、その事故数についての集計表は厚生省の机の引き出しの奥にしまわれ「絶対に公表しない、一番関係の深い人たちだけが見る」ことになっていたと厚生省防疫課にいた職員が後に語った。

1948年、京都でのジフテリア予防接種の時にジフテリア毒素により大規模な医療事故が起き、横隔膜麻痺、咽頭麻痺、心不全等の中毒症状が現れ、死亡者68名という結果になった。同年、島根県でも類似のジフテリア予防接種医療事故が起き15名が死亡した。

 1949年から1950年ごろ、日本では結核の治療法として肋膜外剥離合成樹脂球充填術がさかんに用いられたが化膿を引き起こし摘出されることが多く、後年高齢期を迎えるころには低肺機能となった人が多い。

 1956年、東京大学法学部長の尾高朝雄が「ペニシリンショック」で死亡するという事故が起き、報道機関で大きく取り上げられた。この事故をきっかけとしてペニシリンによるショック死は実はすでに100名に及んでいたことが明らかになり社会問題としても扱われることになった。

 日本では1948年の「予防接種法」以降、強制接種や集団接種が拡大していったが、その強制接種や集団接種が安全な方法で行われていなかった。一例を挙げれば1964年に茨城県で行われた集団接種では、不十分な問診、複数の人に対して針を変えずに接種、マスクをせずに接種、不正確な量の注入、などのやり方が行われていたらしい。
 複数の人に対して針を替えずに接種をする行為が蔓延していたことが日本でC型肝炎が多発した原因である、と考えられている。

 以下省略