現代資本主義は奴隷制の延長 | tokaiama20のブログ

tokaiama20のブログ

ブログの説明を入力します。

 奴隷制社会とは何だったのか?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%88%B6

 元奴隷女性ハリエット・アン・ジェイコブズが記した『ある奴隷少女に起こった出来事』に、私たちは何を学ぶのか。VOGUE
 https://www.vogue.co.jp/change/article/vogue-book-club-incidents-in-the-life-of-a-slave-girl

  アメリカの各都市で”Black Lives Matter(BLM:黒人の命は大切)”を訴えるデモが広がっている。背景には構造化された黒人差別があり、それを遡るとアメリカの奴隷制度にいきつく。

 「奴隷制度」という言葉を見た時、多くの人が想起するのはアメリカ南部の大規模農場で綿花やサトウキビの生産に携わる過酷な労働に従事する黒人の姿だろう。こうした人々は鞭打たれ、動物のように売買される――小説や映画が繰り返し描いてきたシーンだ。

 こうした奴隷制度のイメージから、しばしば抜け落ちているものがある。それは、性暴力だ。
 本書『ある奴隷少女に起こった出来事』は、実在するアフリカ系アメリカ人による自伝である。彼女は白人男性の主人による性虐待、強姦を黙って受け入れる以外の選択肢がなかった黒人女性奴隷の絶望的な境遇を次のように記している。

 「もし、きれいな少女に生まれたならば、最も過酷な呪いをかけられて生まれたのと同じこと――白人女性であれば称賛の的となるうつくしさも、奴隷の少女に与えられれば、人生の転落が早まるだけだ」

 なぜなら、黒人奴隷の少女は人間ではなく、白人の主人の財産だったからだ。彼女が主人から何をされても当時の法律は彼女を保護せず、主人を罰しなかった。本書が描くおよそ200年前、アメリカ南部の奴隷州の法制度は、多くの白人男性を性暴力加害者にしたのである。

 白人の主人が女奴隷との間にもうけた「肌の色がまちまちな子ども」達がいることは、南部の家庭では当たり前だった、と著者は記す。それは、結婚に甘い夢を描いて家庭に入った白人の妻を「嫉妬と憎しみ」に突き落とす。
 女主人は怒りを夫や制度には向けず、女奴隷に対する虐待という形で表したという。

 かつて奴隷は合法的に「人間」ではなく「財産」だった。
 本書で「リンダ」の人生として描かれるのは、著者ハリエット・アン・ジェイコブズの実体験だ。リンダもまた、美しさゆえに不幸を背負った奴隷少女だった。家事手伝いに従事していた彼女は農場での過酷な労働はしなくてすんだ。

 一方で15歳頃から、主人から性的な嫌がらせを受け、愛人になるよう誘われ続ける。妻である夫人はそれを知って嫉妬に狂い、彼女に様々な意地悪を言う。リンダ自身は主人を生理的に嫌悪しており、いかなる誘いにも乗らなかった。

 当時、南部には自由黒人と呼ばれる立場の元奴隷たちがいた。白人の主人が人道的な見地から個人的に奴隷を解放することがあったためだ。
 また、奴隷がお金を貯めて自分自身で自分を買い取り、自由な身分を得ることもあった。リンダの祖母はそんな自由黒人のひとりで、孫たちを買い取るべく、貯金をしていたそうだ。また、同じ街には同情心から彼女を買い取ってくれようとする白人もいた。

 しかし、リンダに執着する主人は頑として彼女を売らず、愛人にする計画を進めていく。一計を案じたリンダは、別の白人男性の愛人となり、その子どもを身ごもることで主人を退けようとするのである。
 物語は、彼女が残酷で好色な主人の家から逃亡し、7年間ものあいだ、高さ90cmしかない、日が差さない屋根裏に隠れ住み、やがて北部に移住して自由を獲得するまでを描いている。

 奴隷制度は今でこそ、誰もが悪だと言う。しかし当時、それは合法だった。奴隷は「人間」ではなく主人の「財産」であり、その逃亡を助けることは他人の財産権の侵害とみなされたのである。このように、法が人の道に外れることを要求する時、あなたなら、どうするだろうか。

 時代を超えて読み継がれる本には、普遍性がある。本書は残酷な制度にもかかわらず、それに背いて、逃亡奴隷を助けた多くの人をも描いている。そこには白人も黒人も男も女もいた。リンダに隠れ家を提供し、食料を運び、危険を知らせた人々は、自身の行動が発覚した場合、おそろしい目に遭うことを承知していた。

 リンダを北部に送り届けた船の船長は白人男性であり、彼女に子守の仕事を与え、追手から守ったのは白人女性だった。最終的に、この女性は自分がお金を払ってリンダを買い取った後、彼女を自由にするのである。

 正義や倫理の観点から、このような行動を取る人がいる一方、黒人による裏切りもあった、と本書は記している。家族のように共に暮らした黒人奴隷を、経済的に困窮してくるとモノとして売り飛ばしてしまう白人もいた。

 私たちは本当の自由を手にしているだろうか。
 読み進めるうちに、考えずにはいられなくなるだろう。もし、自分が200年前のアメリカ南部で生きているとしたら、一体、どんな行動をとっただろう、と。

 もし、あなたが当時の白人女性だったとしたら、過去を語らない黒人女性を家に招き入れて仕事を提供するだろうか。もし、あなたが船や馬車を運転している白人男性だったとしたら、積み荷の中に隠れている逃亡奴隷を保安官に突き出すだろうか。それとも、知らぬ顔をして目的地まで運び、そっと逃がすだろうか。

 いちばん大きな問いは、もし、自分がリンダの立場だったら、ということだ。自分が人間ではなく「もの」「財産」として扱われる世界で、逃げたら殺されるような状況にいたら、どうしただろう。大嫌いな主人から愛人になれ、と迫られ拒み続けることができるだろうか。受け入れたら、それなりに安定した、奴隷としては恵まれた生活があるとして、果たして拒み続け、逃げる勇気を持てるだろうか。

 この本を翻訳したのは、英文学者や翻訳家ではなく、M&A(企業の買収・合併)に関する助言を専門とするグローバル企業で働くコンサルタントだ。もし、本書の購入を迷っている人がいたら、心を揺すぶられる訳者あとがきを、まずは読んでみてほしい。

 今の日本は、制度上は基本的人権が保障され、人が人を売買することはできない。教育を受ける権利や職業選択の自由もある。その一方で、多くの人々が気づかぬうちにグローバル資本主義に組み込まれ、市場原理によって、できることとできないことが知らぬ間に決まっている現状がある。制度上は自由なつもりの人々も、経済的な制約を大きく受けていることがある。

 BLMのデモを見ながら、様々なことを考えている人に、本書を読んでほしいのは、その問いかけが今に通じるものだからだ。今ある法律は、果たして公正なものなのか。もし、法や司法制度が公正でないとしたら、私たちはいかにして、それに抗うことができるのか。生まれつき変えられない属性によって、経済的に著しく不利な状態になっている人はいないか。

 そして、もし、制度が人の道に外れるとしたら、私たちはいかなる手段でそれを変えることができるのか。
**********************************************************
 引用以上

 「人が、他人に対して優位に立ち、その他人の人生を、暴力を使って自分に都合良く利用すること」
 利用対象の人の自由な人生を否定し、自分または自分の組織の利権のために利用すること……という意味を「奴隷制」の原点と認識するなら、現代における企業雇傭や、犯罪の相当部分も、実は「人を利用対象として見て、同じ人間として見ない思想」=奴隷制の上に存在していると考えることもできる。

 奴隷制というものは、「他人を自分の利権のために利用してやろう」と考えた瞬間に発生するものだと言い換えることもできそうだ。
 そして、アメリカや欧州では、200年前、それを国家が容認し、奴隷制を支援したのだ。人を私有財産として自由に売買することが認められていたのだ。

 そこには、欧州から米大陸に移住した人々が、先住民であるネイティブを実に2000万人近く虐殺して、土地を奪ったという歴史が前段にある。
 人の命を軽く見る思想の土壌がなければ、奴隷制など存在できないだろう。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89

 アメリカが日本に原爆を落とした本当の理由は、こうした先住民大虐殺の経験と正当化から来ているともいわれ、黒人やアジア人は同じ価値を持った人間ではないという価値観があった。
 ちなみに、メイフラワー号に乗ってやってきた欧州清教徒たちの正体は、実はキリスト教徒を装ったユダヤ教徒だったとの説がある。
 彼ら自身がボグロムという大虐殺ジェノサイドを逃れてきたのだ。

 奴隷制がなかった国家の歴史は存在しない。
 日本でも、奈良時代前後には明確な奴隷制度があった。それは魏志倭人伝にさえ出てくる。
奴婢という言葉が登場するのは、卑弥呼の墓に「奴婢」が殉葬されたという記述(「卑彌呼以死・大作塚・徑百餘步・徇葬者奴婢百餘人」)があり、権力者の死のために、人が命を無理矢理差し出さねばならなかった。
 また、魏への朝貢に「生口」という奴隷を送ったとの記述が出てくる。

中国における儒教の影響から、奈良時代「白丁」と称された階級が奴隷的身分だったともいわれる。白丁は朝鮮における奴隷階級の表現でもある。
 平安時代、貴族や豪族の荘園労働者の大半が奴隷的身分であったことは、「安寿と厨子王」のような物語からも伺い知ることができる。

 戦国時代に至っても、暴力的に駆り出された民衆が、領主のために強制労働を行わされたという意味では、当時の「領民」の地位は文句のない奴隷だった。
 しかし、日本の領民には「逃散」の自由がある程度あった。アメリカ奴隷は、逃げれば捕まって拷問を受け、また見せしめに殺害された。

 日本史上、最悪だったのは、ボルトガル宣教師、商人による日本女性の奴隷売買だった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93
 1500年代には、九州を中心に日本女性約50万人がポルトガル人によって外国に奴隷として売り飛ばされたという。

日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由
 https://president.jp/articles/-/59341?page=1

 当時、日本総人口は現在の10分の1、約1200万人だったので、当時、奴隷としてポルトガル人に連れ去られた日本女性は現在に換算すると実に500万人だった。
 九州では、若い女性をほとんど見かけなくなったと記録されている。
 女性たちをポルトガル商人に売り飛ばしたのは、実は、当時のキリシタン大名、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信らだったらしい。今では人格者として美化されている高山右近や小西行長の名前も出てくる。

 なぜ女性たちを獣のように狩って、強制的にポルトガル人に引き渡したかというと、ポルトガル人がもたらした鉄砲と火薬が欲しかったらしい。奴隷がイエスの御心に合致したかという問いは、なぜか存在しない。
 当時のポルトガル宣教使は、カトリックのキリスト教を世界に普及するため、世界中に進出したのだが、実は、本当の目的は奴隷貿易であり、人類史上、もっとも悪質な奴隷商人だったともいわれる。

 江戸時代、初期は大名領主と領民の関係は、四公六民(収穫の4割を領主が取り、残りを生産者が得る)システムだったが、徳川吉宗が五公五民制度を導入し、以降は、百姓一揆が頻発するようになった。
 ちなみに、現代でも1980年代までは日本の税金は三公七民だったものが、安倍晋三による消費税10%導入によって、五公五民になり、日本国民の生活は格段に苦しくなった。安倍晋三と正社員制度を否定した竹中平蔵が、庶民の生活を破壊したと断定してもよい。

 ついでに書くと、こうした政府の横暴を糾弾すべきメディアの大半が、韓国人(両班系)によって支配されてしまっている。メディア韓国人(統一教会)は、自民党政権とべったり癒着し、この異常な民衆搾取が自民党によって行われていることを報道しないのだ。
 https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3NVDK1FNJYSFO?ASIN=4775508385

 この理由は、安倍晋三政権を作り、自民党を支えているのが、韓国統一教会であることによるものだ。統一教会が日本のメディアを通じて日本政治を支配しようとしてきた。広告収入を通じてメディアを支配している電通のトップも韓国人である。
 https://akisue-jp.hatenablog.com/entry/2022/06/09/225208

 少し話が逸れたが、「人を人として見ない」奴隷制の思想の上に、現代資本主義が作られている。大企業の従業員は、間違いなく企業利益のためだけに働かされている奴隷に他ならない。

 企業組織では、企業の金儲けだけが最大課題であり、労働者は将棋の駒か、家畜のような存在にすぎない。戦後、1980年代くらいまでは、労働者の生活を守ることを企業経営の目的にしていた人道的経営者もたくさんいたのだが、今は違う。
 とりわけ竹中平蔵が登場して、アメリカの新自由主義思想を日本に持ち込んでから、「企業は株主を儲けさせるために存在している」という思想が定着した。

 人間として生きている労働者の存在など、一切顧みられなくなった。金儲けのためなら、労働者の生活など、どうでもよくなった。だから、正社員を廃止して、首を切りやすい臨時派遣労働者に変えてしまったのだ。
 まさに、日本の労働者は、限りなく奴隷の地位に近づいているのである。

 今では、日本の労働者の半分が、臨時・派遣労働者に貶められている。
 これをやった最大責任者が竹中平蔵であり小泉純一郎である。ちなみに、小泉の実父純也も朝鮮人疑惑が囁かれている。

 竹中平蔵は、正社員制度を追放して、臨時派遣労働者制に切り替えたが、その派遣労働の最大企業、パソナの会長にちゃっかり納まった。自分が行った正社員追放で、自分が最大の利益享受者になったわけだ。これを「利益相反政治」と言う。竹中は歴史上、もっとも悪質な「利益相反=政商」と評されることになった。

 日本の労働者たちは、冒頭に紹介したリンダのように、経営者、主人に身柄を拘束され、不本意に性を貢ぐまでには至っていないと考えている人が多いが、実はそうでもない。
 不景気になり雇用主の価値が上がってくると、雇傭や給与と引き換えに、女性労働者に性を強要する経営者など珍しくないのだ。
  https://www.yomiuri.co.jp/national/20220212-OYT1T50342/

  https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a0b56497e2c64663012561d4a04196abb671b6fe

 社会の経済秩序が落ち込み(どんどん景気が悪くなって、人々が貧しくなり)、安定性が悪くなって道徳的価値観が殺伐としてくると、「何をやっても許される」と勘違いする人が増えてくる。
 そうなると最初に女性の性が狙われ、金による取引が横行して倫理感が貶められて行く。そして、同時に、人の命の価値が、際限なく下落し始めるのである。

 人々が貧しい社会では、金持ちや権力者の力が強くなる。何よりも資本家の力が強くなる。そして女性の性と人の命が軽くなるのだ。
 日本が「失われた30年」消費税による景気停滞によって、人々が貧しくなり、また竹中平蔵によって労働者としての権利を剥奪される時代になった今、まさに、人々の命の価値が薄くなり、限りなく奴隷制社会に向かって近づいていると感じるのは、私だけだろうか?

 奴隷制社会は200年前のアメリカの話だけではないのだ。日本は、まさに、どんどん奴隷社会に向かって人権も人の命も軽くなりつつあるのではないか?
 いつでも首を切られる臨時派遣労働というのは、私には奴隷制労働にしか見えない。
 そこには、リンダのように性を強要される雇用主の絶対的優位が待ち構えている。

 警察も、最近では、ほとんど被害届を受理しなくなったといわれる。つまり人々の人権を守らなくなったのだ。
 自分たちのメンツのためなら、どんなウソでもつくし、私が実際にその被害者になり、被害申告をウソと決めつけられ、危うく精神病院に強制入院させられそうになった。
 今の警察は、「街中で子供たちに声をかけた不審者がいた」という情報には、ひどく敏感になって出動するのだが、痴漢行為を受けたレイプされたという被害届を出しても、ほとんど受理しないといわれる。

 代わりに、「金持ちの家に泥棒が入った」というような事件では、全署を挙げて必死になって捜査し、金持ちの人権を守ろうとする。
 底辺に生きている人々の被害は、責任を問われるものでもないかぎり無視したがる。

 これは、道徳理念が死に、利権だけが重視される社会、人の人権や命が軽い社会になっていることを示している。
 この傾向の先には、やがて奴隷制社会の復活があると思うのは私だけなのか?