真実の価値 | tokaiama20のブログ

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 人間にとって、生きて行く上でもっとも大切なもの、価値は何なのか?
 について、私なりの考えを、これまでもたくさん書いてきた。
 多くの人々が価値と勘違いしている「他人より秀でること」など、この社会の競争主義やコンプレックスのもたらしたゴミやウンコの類いであると私は思ってきた。

 他人から羨まれる人生が価値を持っているわけではない。本当の人生の価値は、死ぬときに自分の過去を振り返ってみて後悔しないですむ人生のことである。
 本当をいえば、実は私の人生は失敗だらけ、後悔だらけで、自分で価値のない軽薄で愚かな人生だったと思わざるをえない。
 他人に自慢できるものなど何一つない。恥ずかしいことばかりだ。

 もし私の人生に良いことがあったとすれば、それは他の人に笑顔を作り出したときではないかと思う。それは私に生きる喜びを与えてくれた。
 だが、実際には、それは少なく。私の存在が嘲笑や不快感による拒絶反応をもたらしか方が多かったようにさえ思う。
 だから、とても恥ずかしいのだが、私は意固地な人間なので、他人の評価よりも、自分の思いを貫くことで、他人に不快感を与え続けてきた。

 まあ、多くの人は、私に他人に評価されるだけの能力がないから、負け惜しみを言っているのだろうと思うにちがいない。
 実際それは当たっているのだが、しかし、私が独自に開発したものも実はたくさんあって、それを世に出して評価を受けたいとは思っていないのだが、もしかして世に出たら高く評価されるものもあるかもしれない。

 例えば、EM菌を利用した自己完結型トイレシステムを、私は20年間行ってきた。これは研究などと立派なものではなく、経過を見てきただけのものだ。
 システムがうまく稼働しているときは、私の排泄物は見事に分解され、悪臭は皆無であり、恐ろしく透き通った、もしかしたら飲めるほどの排水になって、畑を潤している。
 だが、ポンプストレーナが壊れたりでポンプが止まり、水質が悪化して汚泥が浮くような失敗も多い。

 しかし、このシステムは、自分の排泄物や生活排水を、まとめて浄化し、畑に送り込んで炭素循環に役立てることができる。
 一定の畑さえあれば、下水道を必要としない。また上水は井戸水を利用しているので、私の家では上下水道を必要としていない。
 畑と井戸とEM浄化槽と汚水の組み合わせは、もしかしたら未来社会に役立つかもしれない。もう20年間も大きな問題を起こさないで稼働しているのだ。

 とはいっても、私のシステムを評価してくれている人は皆無だ。まあ、ネット上の私には、もの凄い嫌がらせと悪罵嘲笑に溢れているから、多くの人が敬遠して近寄らないことが大きいと思う。
 今でも、以下のような嫌がらせ文章を公開している者がいる。
 https://note.com/love2mac2002jp/n/n5552218634f6
 https://twilog.togetter.com/Demayameyo/date-1023
 https://itest.5ch.net/test/read.cgi/eq/1636578868/682-n

 ほとんどは、自民党青年局あたりの原発推進派によるもので、私の反原発活動を貶める目的で書かれているものらしい。
 とくにlovemac=自称多摩美大卒、自称萩篤彦は、私のことを「中卒の馬鹿」と繰り返し罵倒してきて、その執着ぶりは凄まじい、異様なほどのものだ。
 相手にする価値はゼロの愚劣な内容ばかりなので、弁護士費用(50万円以上かかる)がもったいなくて放置している。

 まあ、自称萩篤彦の粘着嫌がらせを真に受けて信じる側も、相当に異常性が強く、心が荒んでいると思うので、説明したいとも思わない。lovemacを信じたければ、そうすればいい。
 私の人生を振り返って、自称萩篤彦のような他人への嫌がらせは、さすがにしたことがないので、私には彼らの精神構造が理解できないのだ。
 彼らは、いったい何を価値だと思っているのだろう。私への嫌がらせによって、私が不快な思いをすることが価値なのだろうか?

 私は、人生を振り返ってみて、自分が誰からも評価されず、尊敬されなかったことが、むしろ良かったのではないかと思っている。
 何か評判を得ていたなら、それを守るために私は自分に、他人を寄せ付けない壁をつくっていたにちがいないからだ。
 もしも尊敬されていたなら、私は増長し、ものごとの本質を見誤っていたかもしれない。

 まあ、この世で評価されるということは、たくさんの評判とか、権威とかの上に作られるので、権威も地位も皆無である、ただの世捨て貧乏老人である私が評価される前提が存在しないのだが。
 逆に、誰からも評価されず、何一つ守るもののない貧乏老人だから、好き放題に書けるのだ。

 今は、4つのブログを使って、毎日数千のアクセスを得ているので、たとえ社会的に評価されなくとも、読んでいただける人がいるだけで幸せを感じている。
 以前は一日1万近いアクセスがあったこともあるので、減って行くのは寂しいのだが。
 私は、ブログを書くことでささやかな生き甲斐を得ている。だから家族のない孤独にも耐えられる。

 こんな私が、70年以上にわたる人生を総括して、生きる喜びのエッセンスを抽出できたとれば、それは「相対する人の笑顔」だと、繰り返し書いている。
 人間関係における相手の笑顔ほど、自分を癒やしてくれるものはなく、また人生への意欲を生み出してくれるものはない。
 だから「人は笑顔を食べて生きている」と書いてきた。

 財産もいらない。名誉もいらない。地位もいらない。ただ「あなたの笑顔」が欲しいのだ。
 逆に、財産も名誉も地位も欲しがる人たちは、あまり笑顔を好きではなさそうだ。
 いつでも他人と自分を比較し、自分が他人より優位であることに自己満足したいから、他人を怒鳴りつけてみたり、嘲笑してみたりして、人の笑顔をこの世から消してしまいたいように見える。

 上にリンクした、私を誹謗して喜んでいる連中は、まさに人の笑顔が大嫌いで、他人を不愉快にさせることが、嬉しくて仕方ない人間性なのだろう。
 最近、彼が私の家に来たというので監視カメラを調べてみたらあった。白い立派な車に乗っていた。私のような古く汚いアルトじゃない。車には詳しくないが、マーク2かな? おかげで弁護士に頼めば身元が分かる。
 ああ、やっぱり他人を誹謗したがる人間性は、自分を飾りたいのだなと思った。

 なんで、私が「自分の人生を顧みて」なんて書き出したかというと、実は、ある霊能者が、「出会う人の未来が見えなくなってる」と言っていたからだ。
 同じことを、私も感じていた。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6126677.html

 私はかつて、自分の未来が漠然と見えていた時期があった。たぶん50歳くらいまでだと思う。十数年前から、自分の未来がどうなるのかについて、分かること、思うことがまったくなくなってしまった。
 その間、私は肺線維症という病気になって、死を覚悟する羽目になったから、いつでも死と向き合う日々を送ってきた。

 肺胞細胞が半分以下に減ってしまった(繊維化して役立たなくなった)ので、夜中に呼吸が苦しくなって起きてしまうのだが、山のなかを必死になって歩いていると苦しければ苦しいほど、寝ていて楽に呼吸できるので、毎日の呼吸トレーニングのおかげで生きているといえる。

 こんな風に追い詰められると、もう人生への執着は消えて、いつ死んでも構わないと開き直ることができる。
 だから、何が起きても医者にも警察にも頼らない。自分の人生の終わりは、自分で定めるということだ。
 つまり、酸素がなければ呼吸できなくなったなら、私は自分で自分を始末するだろう。
 毎年、少しずつ呼吸能力が劣化して行くことを自覚しながら、「まだ生きていられる」という感覚に私はしがみついている。

 ただ、私が願っていたことは、再生不能といわれた肺胞細胞が、毎日の苦しいトレーニングで、IPS細胞が生成されて失われた肺胞細胞を作り出してくれないかという希望だった。
 もの凄く苦しい急坂登攀の訓練で、もしかしたらIPS細胞が出てくれるかもしれないと考えていた。「肺線維症が進行性で、必ず呼吸能力を失って死亡する」という医学常識をなんとか覆せないか? 必死になって毎日をすごしているのだ。
 
だが、そんな私の運命の前に、もしかしたら、出会う人の大半が、この世から消えてしまうのではないかという問題が見えてきて、別次元の人生観を必要とするようになってしまった。

 私は、自分の人生経験から、「自分の未来を本当に産み出しているものは、自分のカルマである」と確信している。
 人生は「思ったことが実現する世界」であると考えている。だから、もし、これから大半の人々が死んでしまうとすれば、それは大半の人々が「死にたい」と願っていることを意味していると私は思う。

 もちろん、表に出ている意識ではない。心の奥底に隠れた深層意識が、「死にたい」と願っていれば、死をもたらすイベントが訪れるということだ。
 もしも、人々の大半が近未来に死ぬことが事実なら、それだけ、生きて行くのが嫌になっていることを意味している。
 社会の中で生活することに、希望を持てない人が大半であることを意味している。

 そんな視点で、この社会を俯瞰してみれば、多くの日本人が生きている喜びを失っていること。つまり笑顔を失っていること。
 社会全体に救いがなくなっている現実が見えてくるのである。
 人々は、真実の価値が分からなくなっている。