満足と、よりよいものへの憧れ | tokaiama20のブログ

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 私は、今の生活に満足している。家は自分で100万円のキットハウスを組み立てたものだ。トイレも風呂も浄化槽も自分で作った。
 井戸を掘ってもらい、電気を引いてもらったが、内部配線や配管はすべて自分で行った。だからチョロ出しでも対応できない、マイナス10度以下の凍結による水道管破損も、自分で修理できる。
 下水は、トイレを含めて自分でEM浄化処理して畑に流している。悪臭など皆無だ。

 これ以上の便利な生活は望んでいない。必要にして十分な生活をすでに確保している。とりあえず、望んだライフスタイルの終着駅にいると思っている。
 金は余裕がない。年金がひどく少ないからだ。今、手元にあるカネが消えたら、たぶん自分で自分を始末することになるだろう。
 それでも後悔はない。どうしたら楽ちんに死ねるかを考えて、すでに思案は定まっている。

 10年前に肺線維症を患ってから、やることなすこと息切れの連続で、夜中に息切れで眠れなくなることだけが辛い。
 毎日2時間程度の亀のような歩行が、呼吸能力を支えてくれている。息切れのせいで、家の掃除や作業場の片付けも何年も放置したままだが、とりあえず歩くことで、最低限の呼吸能力だけ確保している。

 肺線維症は、独特のブツブツバリバリと音をたてる呼吸音が出てから余命は最大5年程度といわれていた。しかし、すでに10年を経過した。情報では、最大延命記録が10年になっている。
 たぶん、医療にかかっていたなら、不必要な検査や投薬のせいで、とっくの昔に死んでいた。医療は、病気を治すためのものではないからだ。

 私が延命できている理由としては、家族や友人がいないこともある。本当に孤独だから、誰にも邪魔されず、毎日のルーチンワーク=呼吸トレーニングを、自分の必要に応じてこなすことができた。それは毎日7000~10000歩、高低差200mの山道を亀のように歩くことだ。
 1990年に100名山を完登した、若い頃の登山経験が強力なアドバンテージとなっている。

 病気を悪化させる要因として、同居者や家族の存在も大きいので、本気で病気に立ち向かうために孤独は必要不可欠な条件だと私は思う。
 悪化したとき医療体制に頼れないと思う人もいるだろうが、最初から医療など信用していないし、死への覚悟もできているので、急な悪化には、すでに諦めがついているのだ。

 トイレに行っても、しゃがんだだけでも息切れしているのに、なぜ山を歩けるのか本当に不思議だ。もちろん歩くときは、水泳競技のように全力で呼吸しなければならないが。
 もしも三日も歩かないと、日常生活の息切れは、どんどん激しいものになってゆく。だから土砂降りが続く日が怖い。

 私は、とっくに死を覚悟しているので、何も恐れるものがない。
 自分を名誉で飾りたいと思うこともない。「人間のクズ」と罵られながら死ぬのも悪くないと思っている。
 これまで理不尽な嫌がらせに、たくさん遭ってきて、いずれ復讐してやりたい気持ちはあるし、近所に住む悪意の権化のような泥棒Aとの決着もついてないので、もしかしたら死刑で人生を終えなければならないことも覚悟した。

 70歳を過ぎてみて、こんなに長生きできるとは思っていなかったのだが、若い頃は、自分の人生を飾りたい……名誉ある人生を送りたいという雑念に支配されていたのだが、今では、どんな死も、何一つ優劣のない「同じ死」であって、この人生で貯め込んだカルマを来生で返す運命であることを理解している。

 カルマが輪廻転生を定めるのだ。これが70年かけて理解した集大成だ。
 そして、人生には因果応報の法則が完全無欠に作用する。そのことに確信を持つようになって、私に理不尽、不当な迫害を行った連中にも、必ずカルマの法則が適用されることがわかり、少しは安心することができた。
 同時に、私自身が行った理不尽も、完全無欠に自分に還ってきていることに恐怖させられた。

 カルマや因果応報について、ついでに書いておくが、これは、自分が生きている世界というものは、自分の心が生み出している幻影であり、茶番劇にすぎないということが原理になっている。
 対象的世界は、本当は、自分の心=カルマがすべて作り出しているものだ。このことに気づく人と、最後まで気づかない人がいる。

 具体的には、ナチズムを信奉してユダヤ人たちを虐殺した人たちが、死後、生まれ変わるために自分の転生を選んだとき、進んで地獄社会である北朝鮮への転生を選んだと聞いたことがある。
 地獄というものは、自分で選んでゆくものだ。放り込まれるものではない。
 
 もう、何十年も前だが、「フランチェッツオの霊界通信」という本が出版されて、当時、私は霊界ものに凝りまくっていたので、すぐに購入して読みふけった。
 なんといっても、宜保愛子の活躍していた時代、1980年代、当時、霊界に関心を抱いた人は半端な数ではなかっただろう。
 この本は、もしかしたら、霊界通信ものの最高傑作ではないかと当時思った。
  https://yosirin.exblog.jp/19259430/

 この本のなかに、ローマ法王をはじめとする宗教指導者たちが、死後、どんな状態になっているのか、詳しく書かれていた。現物がないのでうろ覚えだが、宗教指導者として人々にウソを教え続けていた人々は、もちろん地獄に向かうのだが、その行先は「凍結の森」だった。

 宗教指導者たちは、自分の語ってきたウソを真実と勘違いしているので、それがウソであることを理解できるまで、自らを正当化する目的で凍結しているのだ。
 これを見て、文鮮明や池田大作、そして大川隆法らが、死後どんな事態になっているのか、よく理解できた。
 彼らが本当に目覚めるときは、自分の言っていたことがウソだと知ったときなのだが、たぶん、その頃には人類は滅亡しているだろう。

 「思ったことが実現する世界」それが霊界である。
 死後、自分のカルマを顧みて、それを返せる人生を自分で選ぶのだ。だから、ナチスや、他人に理不尽で無益な死を強要してきた人物、例えば牟田口廉也とか、石井四郎とか、内藤良一とか、ヒトラーとかメンゲレとか、あるいはルターやカルビンたちは、自分の悪行を理解した段階で、自ら進んで地獄に墜ちて、因果応報が完全無欠に作用することになる。

 だから生前、悪行を重ねた詐欺師たちは、霊界で人間社会の真実を目にして、自分がどれほど愚かなことをして、他人を苦しめてきたか知った段階で、もしも、生まれ変わって善人の人生を選びたいと思ったなら、北朝鮮のような地獄社会での苦痛を選ぶことになる。加害者だった前世に対し、被害者となる来生を選ぶのである。
 なかには、最後まで前世を正当化する霊もいて、そんな霊たちは凍結の森に入って行く。

 そうなると、プーチンとか、習近平とか、ネタニヤフたちの死後の運命も恐ろしいものだ。プーチンについては、ルシファーそのものと指摘する人もいるのだが。
 たぶんキッシンジャー、ビルゲイツ、アルゴアらも恐ろしい来生が保証されているのだろう。悪人たちは、それにふさわしい運命を自分で選んで歩いてゆくのだ。

 どうして完全無欠に清算しなければならない運命の「人間界の悪」が生まれるのかが、今回の課題だ。
 冒頭に掲げた、自分の人生への満足があれば、他人を苦しめる動機もない。何の不平不満もなく、静かに生と死を選ぶことができる。
 だが、宗教指導者たちも、プーチンも習近平も、普通の人が望みもしない他人をひれ伏させる権威に憧れ、自分の人生を飾ろうとしている。

 いったい何が理由で、たくさんの人々を苦しませ、殺しながら自分の権力を拡大し続けようとするのだろう?
 彼らには、自分の存在に対する満足が永久に存在しないかのようだ。
 果てのない力が欲しい、他者を屈服させたい、他人の苦しみを通じて、際限もない自分の喜びを作りたい。

 そんな心の動機を産み出すものは何か? それは競争主義のメカニズだと私は思う。
日本社会は、明治以降、競争主義が持ち込まれた。江戸時代には、競争主義は儒教で序列を教えられた士族に存在した。
 しかし、明治政府によって「四民平等」が公布され、学校教育制度が義務として強要されると、学校で教えることは、儒教的序列と、競争によるランク付けだった。

 私の時代も、幼い幼稚園の頃から、かけっこ、お絵かき、テストなど、あらゆる教育がランク付けを強要するもので、幼い心に、人間には序列が存在するとすり込ませるものだった。
 こうした教育思想の結果、我々は「人間のランキング競争」が人生の目標であるかのようにすり込まれてしまったのだ。

 結果、障害者、弱者は疎外され、いじめられる社会がやってきた。
 こんな思想が、ドイツ社会では日本以上に強固だったので、「悪しきものを排除する」という優生保護の思想が絶対視され、T4作戦によってドイツの40万人の障害者がガス室に送り込まれて殺害されたのである。
 もちろん、日本でも、優生保護法が施行され、まだ1990年代まで障害者は本人の意思を無視して強制断種手術を受けさせられた。

 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828568.html

 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828186.html

 ランク上位にある「優秀」な子供を教師や学校体制は持ち上げて、学歴支配社会が成立していった。
 落ちこぼれた私のような子供は、死ぬまで落ちこぼれ人生が約束されるようになった。

 社会全体は、ランキング上位を目指す競争をするようになった。より上位でなければ存在理由も価値もないと人々が考えるようになった。
 日本社会全体が「よりよいもの」でなければ無価値という上昇志向を持ってしまった。
 だから「一番でなければダメなんですか? 二番ではダメなんですか?」という議論がインパクトを持った。

 だから、米山隆一が、「過疎の地方を集団移転させよ、農業は集約化せよ」、という合理化、金儲け一本槍の主張をするようになった。
 「みんなが同じ方向を向き、ランキング競争をしながら、上昇せよ」という思想を強要する社会がやってきて、このため、毎年数十万人の若者たちが、世を悲観して自殺するようになった。

 だが、本当に大切なものは、他人の評価する社会的ランキングではない。「自分の人生に満足すること」であり、他人の評価などどうでもよいのだ。
 「自分の納得できる世界を、自分自身でどう作り出すことができるのか」が、自分にとっての本当の人生であるはずなのに、他人の評価が、人生を左右し、人間性にまで影響を与えている社会になってしまっている。

 私の人生も、ネット上で、ずいぶんひどく嘲笑する連中が少なくないのだが、調べてみると、多くは統一教会系の工作部隊だった。私を「中卒」と嘲笑する静岡の人物は、韓国社会の儒教の影響を強く受けているようだった。
 日本には1900年以降、1945年までに300万人もの朝鮮・韓国人が移住してきて、100年以上経た現在では、すでに1000万人近い子孫がいる計算になる。

 彼らが持ち込んだ、儒教的序列思想も日本社会の差別に大きな役割を果たしている。
 世界一の学歴競争社会といわれるのが韓国だが、日本も、その影響を大きく受けていて、人間の序列を学歴や地位で定めようとする人が少なくない。

 本来、江戸期まで日本社会には、競争という概念が少なかった。日本人は、他人を蔑んだり嘲笑したりする差別意識を持った人が少なかった。
 しかし、明治維新以降、山県有朋が導入した序列教育主義によって日本社会全体が差別と序列の社会に変化していってしまった。
 あらゆる人生の局面に競争が強要されるようになってしまったのだ。

 日本は職人社会だった。職人は、使う人に役立つことで自分の技量に満足し、金銭的利益に強い関心を抱く人は少なかった。
 しかし、競争社会が持ち込まれてから、「カネにならない仕事はやらない……カネになることがすべて」という資本主義の思想を礼賛する人々が増えていった。
 そうして、日本社会は、どんどんと利己主義に染まっていったのだ。そして資本主義が浸透し、今では竹中平蔵によって新自由主義の社会になった。

 こんな社会では、すべてが金儲けを基準に判断されることになり、「自分で満足する人生」という価値観を理解できる人々が激減していった。
 我々が本当に求めているのは、金儲けの多寡なのか? よりよきモノなのか?
 我々が求めているのは、心の平安を得られる、自分自身が満足できる人生ではなかったのか?