米山隆一批判 | tokaiama20のブログ

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 私は、米山隆一氏が、能登半島巨大地震に伴って、「過疎地の住民を集団移転させるべき」と発言していることを知ってから、彼の本質に注目してきた。
https://mainichi.jp/articles/20240126/k00/00m/040/382000c

 次に、米山氏が、農地の集約=合理化に積極的な発言を行っていることを知った。弱小農業を切り捨て、大規模経営の企業農業に転換すべきという意味だ。
 これは自民党の「金がすべて」と信ずる新自由主義者たちに共通する意見でもある。
 
農地の集約化 2013-03-20
https://ameblo.jp/yoneyone00/entry-12819990560.html

 米山隆一とは、どんな人物なのか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%B1%B1%E9%9A%86%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)

 東大卒で医学博士・弁護士という、日本の政治家でも希な高学歴、高能力者で、高知能者の多い、新潟の魚沼・小千谷・長岡地区でも、ずば抜けた格がある。
 この地域出身の有名人は、学者とアナウンサーが多い。昔から高IQ地帯であり、かつ美人の産地としても知られていた。
 小林麻央のような美女が普通にいる地域だ。櫻井よしこもその一人だった。

 櫻井よしこといえば、統一教会支持者でもあり、有本薫や山谷えり子とならんで日本の右翼女性を代表する人物だが、強固な優生保護主義者としても知られている。
 桜井は、日本の反LGBT運動の代表的スピーカでもある。
 https://www.sankei.com/article/20231109-IBLUNXTZZNGMPE22OXXGUY25IM/

 私の知る限りで、美人の産地には、ある共通点がある。それは江戸時代から為政者が優生保護思想に熱心な地域ということだ。
 つまり、「優れたものが大好き」なのだ。越後長岡藩では、たぶんだが、城下の女性たちは意図的に美人が集められた。

 幕末に、江戸の旗本8万旗といわれた幕府お抱えの高級サラリーマンたちが一斉に職を失うことになり、大挙して家康の拠点だった駿府に向かい、牧之原を拓いて茶の生産を始めた。
 江戸の幕臣たちも、身分差別制度のなかで、比較優劣を競い合い、優生保護思想に染まっていた者が多かったので、女性たちが美人揃いだった。
 だから、今でも牧之原や島田市では、子孫の婦女子にびっくりするような美人が多い。たぶんだが、広瀬姉妹もそうではないかと思う。次の首相候補、上川陽子もそうだ。

 新潟出身の私の母も、祖父の代まで長岡藩牧野家の関係者で、戊辰戦争後の破滅のなかで生活が立ちゆかず新潟市に移動していった。
 母も、そこそこの美人で、知能も高かった。女性たちはぱっちりとした目が特徴的だ。母もそうだった。
 私は司馬遼太郎の「峠」を読みながら、長岡藩に引導を渡した河合継之介に夢中になって興奮し、80里越に足を伸ばし、峠で熊に吠えられて追い返されたことを思い出す。

 人間の容姿や知能の優劣を競うような風土では、必ず「良いものを残して、劣るものを排除する」という優生保護思想が定着することになり、無数の櫻井よしこが産み出されるのだ。
 長岡圏というのは、長岡市・小千谷市・魚沼をいうのだが、この地域から米山隆一が登場してきて、際だった「優秀性」を誇っている。

 自分を「優秀」であると認定し、その価値を誇るようになると、「優秀なものと、そうでないもの」に序列化する発想が出てくるようになる。
 おそらく、誇り高き米山氏にとって、対象的世界が「優れているものと劣っているもの」との序列に見えているように思える。

 「集約されない農地は無駄の極みであり、強引にでも集約すべきだ」と思っているのだろうが、これもまた、思い上がった優生保護思想の延長にあることを米山氏は、気づいていないようだ。
 「過疎地帯は救済せずに、都市圏に集団移転させるべき」という発想も、私には効率しか見えない新自由主義の優生保護思想に見える。
 そこには、「優れていなくとも、故郷を愛して真摯に生きている人々」への同情や連帯という発想は見えない。

 米山氏には、劣っていると評されている世界で、それを愛して生きている人々への理解や連帯が見えないのだ。
 農地は集約化された機械化と化学管理の農業以外は価値がないかのように見えているのではないか?
 農業機械の入らない小さな棚田で、手作りの薬に頼らない自然農業に、何の価値も見いだせていないのではないか?

 米山氏には、対象的世界を「優れた価値の高いもの」に変えなければならない、そして「劣ったものを排除しなければならない、という価値観だけしか見えない。
 過疎地帯のポツンと一軒家で、土地を愛し、先祖を偲んで必死になって生きている人たちには、何の価値もないと考えているのではないか?

 現代日本において、「優れている」ことの基準は、新自由主義の発想では「金になるか」という一点しかない。「金にならないものは悪」なのだ。
 だから、過疎地帯への公共交通や公的資金の投入は悪ということになり、私の住む土地も20年前に日8本あったバス便が、今では完全廃止されている。
 近い美乃坂本駅までは徒歩3時間半かかる。リニア駅になっても同じことだ。

 老人たちは、認知欠陥を口実に運転免許まで取り上げられ病院にさえ行くことができない。ネットで商品を通販購入すればよいと思うだろうが、パソコンやスマホを自在に操れる老人は少ない。
 それで、故郷を捨てて、都市に移住せよと米山氏は主張する。しかし、故郷を愛する住民たちは、不便に苦しみながら、そこでの死を選ぶだろう。
 米山氏には、それが理解できないのだ。

 ヒトラー時代のドイツでは、優れているということの意味は、「国家の価値を示威できるか」ということだった。
 だから「お国のために役に立たないもの、そして、金にならないものを排除する」ことが使命であるかのように思い込まされるのだ。

 ヒトラーは、障害者を「国に役立たない」と決めつけ、40万人を殺害した。やがて、自分の障害を持った甥御まで殺されたことを知って、その計画を中止した。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828384.html

 日本のT4作戦 2018年09月28日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828186.html

 日本でもヒトラーに負けていない。考えようによっては、障害者をガス室で殺戮したナチスよりも、はるかに残酷なことを行った。日本で、国家によって本人の意思を無視して強制的に不妊手術を受けさせられた障害者は数万人に上るのだ。
 優生保護法による被害者たちは、未だに苦しみの声を上げ続けている。

 9歳の少女に強制不妊手術。かつて日本に実在した残酷な法律 2018.02.01
 https://www.mag2.com/p/news/348601

 私が、今回、米山隆一批判を行った理由は、この優生保護法の推進者がどのような人物だったかという問題を提起したいからだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E6%B3%95

 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828384.html

 1948~1996年まで存在した優生保護法によって、障害者は自分の意思を無視され、強制的に断種手術を受けさせられ、生殖機能を奪われた。
 この法律の推進者は、主に、野党、日本社会党の馬島偶・加藤シヅエ・福田昌子・太田典礼そして市川房枝もそうだった。
 ただし、保守系議員による優生保護は、「障害者のように劣っている者は断種せよ」というナチス的発想だったのに対し、野党側の優生保護思想は、女性の堕胎の自由を保障せよという意味だったから、かなり違う。

 だが、優生保護法が制定されて、実際に障害者が強制断種を受けた結果には、加藤シズエ、福田昌子らは大きな責任を負わねばならない。彼女らは、死後、地獄に堕とされているかもしれない。
 なぜ、こんな一人一人の人生を無視した、個人の人生よりも国家の権益を優先させるファッシズム的発想が社会を席巻していたかといえば、戦前からの天皇国家主義の洗脳が戦後も強力に残っていたからだ。

 「個人の人生は、国家(集団)のもの」という洗脳から人々が解放されるには、1970年代の人間解放運動まで待たなければならなかった。そして、それを受けて、個人主義(利己主義)によるバブル時代が始まったのである。
 だが、その人間解放が叫ばれている最中に、障害者たちは強制断種を受けさせられていたのだ。
 実は日本だけではない。カナダやフィンランド、豪州などでも、それは実行された。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827799.html

 「個人の人生は国家のもの」という国家主義、集団主義の呪いが、戦後も広く世界を覆っていた。
 それでは、現在、そうした集団主義による人権侵害はなくなったのかといえば、決してそうではない。
 「お国のために……」という発想は、櫻井よしこ、有本香らの発言にプンプン漂っている。

 私が今回、米山隆一批判を書いた理由も、米山の価値観が、過疎の山村に住んでいる人の人生、世界観を無視して、経済的合理性のために、集団移転させよと発言したり、小さな昔ながらの土着農業を不合理と決めつけて、合理的な集約農業に変えよと、金儲けだけを前面に出した発言を行っていて、それが彼の持つ優生保護思想から生み出されている真実を明らかにしたいと思ったからだ。

 米山隆一が、今、優生保護法を前にしたなら、個人の人権を大切にするよりも、国家の合理性をタテに、不合理なもの、弱者を排除せよという姿勢を見せることが明らかだ。
 これは米山の優秀さへの自己満足や、彼の人間性から生まれているものだから、米山の「優れ主義」を否定することは、彼の人生と価値観を真正面から否定することになり、彼が承服するわけがないのだ。
 米山隆一は全体主義者である。つまりファッシストだ。弱者を排除する人物だ。

 だが、私自身が弱者だし、誰にも支配されない、誰の価値観に強いられるでもない、自由な私の人生を全うしたい。
 熊やカモシカの出る、バス便のない過疎地帯で、鉄道を利用するために駅まで3時間半歩く生活を、私は愛している。誰にも、「不便で気の毒な生活」などと言われたくない。
 私は、金もないから、金の枯渇が命の枯渇になるのだが、最後は、自分の意思で自分を始末したいと思っている。そのことに後悔するつもりなどない。

 ただ、「優秀な人物」が、これを「劣っている」と認定し、強制排除、廃止させる社会に命をかけて反対するつもりだ。私自身の世界は、十分に豊かで満足のゆくものだから心配してもらわなくともよい。