移動できない若者たち | tokaiama20のブログ

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 自民党と維新の新自由主義思想(金になることしかやらない)に基づいた政策による「地方切り捨て」は加速するばかりだ。
 私が2003年に移住した中津川市蛭川地区は、移住当時、徒歩10分ほどのバス停で、一日8本程度のバス便があり、車を持たずとも恵那市内に買い物にゆくことができた。

 ちなみに恵那駅繁華街まで14Km程度、徒歩だと3時間半程度だ。恵那峡経由のバスでは30分程度だった。まあ、便利ではないが、恵那駅近くのスーパーにバスで往復できた。
  それから年を追ってバス便が減らされ、日6本、4本と減ってゆき、三年前にとうとうバス便が廃止された。
 我が家は中津川駅からだと高山大橋で降りて徒歩2時間だが、高低差があって辛い。途中には熊がよく出る山林が多い。

 老人たちがバスに乗る理由は、買い物と病院、デイサービスが多い。しかし、恵那市立病院へのバス便はなく、駅からタクシーだと1400円くらい。徒歩だと30分近く歩かなければならない。
 中津川市民病院もバスが廃止され、中津川駅から2400円近くかかるタクシーを利用するしかない。恵那盆地の病院らしい病院は、この二つだけだ。

 これでは、少ない年金暮らしの老人たちは、自家用車を利用しなければ病院にもスーパーにも行けないことになる。だが、老人たちにとって、自家用車の利用環境も苛酷になるばかりだ。
 車は軽であっても、年々高価になり、維持費、保険費用もどんどん上がる。ガソリン代も安い時期の2倍になっている。

 それよりも運転免許条件が過酷になり、70歳を過ぎると、金のかかる多くのテストを受け、本日の日付曜日や時間を思い出せないと門前払いだ。また16種類の絵を記憶して再現させられるが、半分くらいできなければアウトだ。私など脳挫傷を経験しているので海馬が萎縮していて、即時記憶が苦手でかなり厳しい。
 まるで、すべての70歳以上が認知症の危険運転者と決めつけられているみたいだ。

 もしも、蛭川在住で運転免許更新が拒否されたなら、一人暮らし老人の私は、その日から生きて行くことが困難になってしまう。私は大型二種免だが、更新できなければ原付の運転さえ許されないのだ。
 旧村内には二軒の小さな食料品店があるのだが、品数の多いスーパーに行くには一番近い店まで15Km程度、徒歩だと4時間近くかかってしまう。
 年金を下ろせる郵便局までは徒歩30分だ。病院に行こうとすれば徒歩4時間は覚悟しなければならない。
 タクシーを一度だけ使ったが8000円近くかかった。歩いた方がマシと思った。

 「金がすべて」という価値観を持った新自由主義政権、自民党や維新は、過疎地方の金のかかる公共サービスに存在理由を認めていない。バスの廃止どころか、病院など公共施設の多くを廃止し、地域社会そのものを廃絶に追い込もうとしているかのようだ。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6078996.html

 地方を廃止することの意味を理解できない者は多い。過疎地方が社会全体に果たしている役割を極めて軽視している人が大半といってよい。
 地方の役割というのは、何よりも「人の目=国土の監視」である。
 過疎地方から人がいなくなれば、山林は荒廃し、河川の状態にも目が行き届かず、崩落などによる洪水災害が下流の都市部を襲うのだ。
 そして、下にリンクしたように、中国共産党や北朝鮮のような極悪独裁政権が日本を軍事侵攻する拠点作りも野放しになってしまう。

 安倍晋三や橋下徹らが、外資や習近平の実弟が経営する上海電力を日本に入れてしまって、自由に国土を改変し、金儲けさせるようになった。
 麻生太郎は、日本のすべての公共インフラを外資に経営させるとまで発言している。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6065769.html
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6065770.html
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6081195.html

 こんな売国奴そのものの自民党や維新を、右傾化した若者が支持しているだからどうしようもない。まるで戦前の陸軍皇道派の暴走を見ているようだ。

 私が三多摩地区に住んでいたころ、若い私は車など保有していなかったので、ほとんどを公共交通機関に頼った。もう半世紀くらい前のことだ。
 当時は、全国津々浦々まで公共交通が整備され、映画の寅さんのようにバッグ一つ持って全国の、どんな田舎にでも向かうことができた。
 私は山キチだったので、休みとなれば雨の日でも電車やバスを乗り継いで奥多摩の山々に向かった。当時は、公共交通機関で百名山を踏破することができた。

 本当に、当時は車がなくても、全国どこにでも移動できたのだ。今は我が家のもっとも近いバス停は徒歩2時間だが、当時は、どんなとんでもない過疎地方でも徒歩2時間もかかることは滅多になかった。
 だが、今では、人口が数万人もあるような立派な街でさえバス便が極端に少ない地方が出てきた。

『バスあるからここに住んだのに』減る路線バス…奈良で人口3番目のベッドタウンでも「多額の赤字」で再編案 市で全て補填できず…国や県は支援対象外 10/25
  https://news.yahoo.co.jp/articles/5b3bfcfcc465d050955a156190530d8414a8e102

 そりゃ自家用車の普及やバスの運転手不足もあるだろう。だが、バスの便数が日6本以下だと、事実上、買い物などの利用価値がひどく低下するのだ。
 どうしても自家用車のある家ではバスに乗らなくなる。しかし、老齢化したり、貧しい家ではバスしか市街地に出る手段がない。
 未来を作り出す若者たちが、過疎の田舎に住まなくなったという事情が本質的な問題なのだ。

 それでも公共交通機関は採算がとれなくとも維持しなければならない。それは移動のための最後の命綱なのだから。命綱の消えた過疎の田舎には、もう廃墟化の道しか残されていない。
 それは上流の監視が消えることで、下流の都市住民の安全も脅かすことになる。ひいては、大都市住民が大災害などで移動退避する地域をも失うことになる。

 さらにいえば、過疎地方は農村・山村であり、大切な水資源地帯であり、食料の供給地帯だ。大災害や戦争が起きたとき、過疎地方の農地が強力な水と食糧資源を確保してくれる生命線なのに、それを失ってしまうのだ。
 過疎地方を廃墟にして、いいことなど一つもない。金にならない土地ではあっても、国土国民生活の最後の防衛ライフラインなのである。

 それを「金にならない」という理由で、廃墟にしてしまうことが何をもたらすのか?
 自民党や維新の「新自由主義」の愚かさを理解しないと、日本民族を滅ぼす結果になりかねないのだ。

 さて、中曽根康弘や竹中平蔵のもたらした新自由主義は、現在、人々をスーパーシティに閉じ込めて監視生活をさせる15分都市構想というビジョンを発表している。
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6014954.html

 竹中平蔵は、15分都市=スーパーシティの利権を独占しようとして、すでに20年も前から兄の会社を使って過疎地方を買い占めてきた。
 これは、住民を徒歩15分圏内に閉じ込めて、移動をさせないという構想だ。
 表向きは、「二酸化炭素を減らす」と言っているが、実際にはアウシュビッツのような牢獄ゲットーと思った方がいい。
 本当の狙いは、ダボス会議の狙う人口削減計画だと私は思っている。その前段階として、若者たちが移動しない社会が計画されている。
 
日本でじつは「移動できる人とできない人」の格差が広がっていた…!11/1
 https://news.yahoo.co.jp/articles/6d571b957a5e28f024d203336935c0c796e591b2

  いま日本はどんな国なのか、私たちはどんな時代を生きているのか。
 日本人が移動しなくなった?
 コロナ禍のせいで、日本人は移動しなくなった──。
 そう言われたとき、当然だろうと思う人が多いかもしれない。

 しかし、じつは、日本人はコロナ禍以前から移動しなくなっていることをご存知だろうか。
 話題書『日本の死角』では、「日本人が『移動』しなくなっているのはナゼ? 地方で不気味な『格差』が拡大中」という論考でそのテーマを深く掘り下げている。

 〈東京、中京、大阪の三大都市圏に移動した人口、またそれを総人口で割った移動率をみれば、移動者、またそれに輪をかけ移動率が、1970年に最高値を記録して以降、ほぼ一貫して減少傾向にあることが確認される。

 直近では2020年に68万人と最盛期の158万人の半分以下になっているが、これもコロナ禍の影響というより、あくまで大きなトレンドに従うものであることがわかる。〉(『日本の死角』より)

 1970年からずっと減少傾向にあるというのは、意外かもしれない。具体的には、移動が減るとはどういうことなのか? 

「移動できる者」と「できない者」
 『日本の死角』の論考の中で、「最大の問題は、移動の減少が均一にではなく、格差を伴い生じている可能性である」という指摘がされている。
 〈『移動できる者』と『できない者』の二極化が進んでいる。

 かならずしも地方から出る必要がなくなるなかで、都会に向かう者は学歴や資産、あるいは自分自身に対するある種無謀な自信を持った特殊な者に限られているのである。
 問題は、そのせいで地方社会の風通しが悪くなっていることである。

 学歴に優れ、資産を持つ『社会的な強者』だけが抜けていく地方になお留まる人びとには、これまで以上に地元の人間関係やしきたりに従順であることが求められる。
 結果として、地方では『地域カースト』とでも呼べるような上下関係が目立つようになっている。

 移動の機会の減少は、それまでの人間関係を変え、ちがう自分になる可能性を奪う。その結果、親の地位や子どものころからの関係がより重視される社会がつくられているのである。〉(『日本の死角』より)

 これを読む人は、移動をしている人だろうか。地方に住む人であれば、「地域カースト」といった人間関係に心当たりはあるだろうか。
 移動が減っている現実を直視し、日本社会の未来を考える契機としたい。

 つづく「なぜ若者は結婚しない・できないのか…大人が意外と知らない『2つの理由』」では、家族はコスパが悪いため、コスパで考えると結婚しない方がいいと考える人がいるという現実を深く分析する。
https://gendai.media/articles/-/110263?utm_source=yahoonews&utm_medium=related&utm_campaign=link&utm_content=related
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 引用以上

 若者たちに「移動できる者とできない者」の格差が生じているというのが上の主題だ。
 移動には金がかかる。だから竹中平蔵が日本社会にもたらした低賃金の臨時派遣労働者の若者は、恵まれた正社員に比べて移動ができにくい。
 休みになれば、自宅や喫茶店でゴロゴロしているだけということになる。

 これは過疎地方を廃墟に追い込む、自民党の過疎切り捨てと一対の政策なのである。
 どうせ移動できないのなら、15分都市という移動制約社会であっても、さほど変化はないと、貧しい若者たちが思うようになる。
 やがて、誰も住まない過疎地方に、15分都市スーパーシティが作られる。

 このスーパーシティが、人間社会に何をもたらすのか? まだ、はっきりと予想できないが、私に言わせれば、これは一種のゲットーであり、移動しないよう馴致された若者たちが、閉じ込められていることさえ気づかない動物園に飼育されるようなものだと私は思う。

 ただ、もちろん上流階級、特権階級はこの限りでなく、15分都市でも移動の自由が許されている。
 だが、若者たちは、できるだけ遠く、自分の足で移動することにより真実を見抜くことができるのだ。移動しない若者たちは、思考能力を失い家畜として馴致されるしかない。

 昨日、びっくりしたのだが、アメーバブログで、私の知らないうちに、過去のブログが無断削除されていることに気づいた。連絡は一切ない。完全な無断削除だ。ヤフーブログでも同じだった。
 私は、ツイッターやFC2、ヤフーなど、たくさんの言論フレームワークシステムから一方的に排除されてきた。
 だからアメブロも、いつ追放されるか分からないので、いくつかのブログシステムに保険をかけている。

 グーグルもマイクロソフトも、前世紀のことを思えば、恐ろしいほどの管理社会になっている。それは新型コロナワクチン問題で顕著に表れた。
 政府に都合の悪い言論は、あらゆる場所から追放されている。
 本日、私は新型コロナウイルスが人工的に操作された生物兵器であることを暴露した京大の宮沢孝之氏が、京大から追放されたことを知った。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6077302.html

 上のリンクのなかで、たぶん既存アカデミーから追放されると予想していたが、こうも早く、露骨な排除が行われるとまでは予想していなかった。
 http://totalnewsjp.com/2023/10/31/covid19-1024/

 政府やダボス会議に逆らって真実を暴露したなら、必ず公職やアカデミーから追放される。これはインターネットの世界を牛耳る、グーグル、マイクロソフトなどGAFAM秘密警察部隊の意思である。
 このダボス会議が、私の住む過疎地方の廃墟化を求めているのだと私は思う。
 
  そして、若者たちを移動させないで、15分都市に連れて行こうとしているのだと、今日のブログで声を大きくして叫びたい。
 世界を、「金儲けが人類社会の最大価値」という新自由主義社会に連れてゆこうとしているのである。