1998年、イタリアのパドバで開かれた学会に、Oさんと一緒に参加しました。
イタリアへ行く途中、ミラノで乗り換えました。
その駅でのことです。
Oさんのスーツケースを、エスカレーターで引き上げるのを手伝おうとしました。
ところが、逆にキャスターが引っかかってしまいました。
下手をすると、Oさんもろとも下に落としてしまうところでした。
Oさん、ごめんなさい。
今だから言います。
無事にパドバに着いてからは、二人で街の中を散策しました。
公園のような場所があり、そこでは小さなスクリーンを張って、映画を上映していました。
また、城壁のような高い塀が続いている場所もありました。
住民の方たちは、抜け穴のような小さな扉から出入りしていました。
何となく怖くて、私は中に入ることができませんでした。
一方のOさんは、そんなことはまったく気にする様子もありません。
平然と歩き、店に入っては、日本にいる家族へのお土産を買っていました。
「慣れているなあ」
「落ち着いているなあ」
と、私は感心していました。
泊まった宿も、今思い出すと不思議なホテルでした。
日本でいえば、大きな家を改造して、その中にいくつもの部屋をつくり、宿泊できるようにしたような感じです。
朝食は、台所のような場所でいただきました。
パンと飲み物だけの、いたって質素な朝食でした。
それでも、どこか落ち着いた雰囲気があり、私はあの宿が好きでした。
今年の日本の夏は、暑いというより、痛い。
日差しが肌に突き刺さるようで、とても歩いていられない日もありました。
あの時のイタリア、パドバの夏も暑かった。
しかし、少なくとも私の記憶の中では、今年の日本ほどではありませんでした。
学会が終わり、いよいよ帰国です。
一度ローマ空港へ行き、そこからそれぞれ帰ることになりました。
Oさんとは、イギリスのヒースロー空港まで一緒でした。
しかし、Oさんはそのまま日本へ帰るのではありませんでした。
アイルランドのベルファストにいる友人に会いに行くというのです。
そこで、お別れしました。
私はそのまま日本へ帰国しました。
Oさんは、帰国後も変わりませんでした。
道で困っている外国人がいれば、自宅に招いてビールをごちそうする。
ベルファストの友人を日本の自宅に招待する。
そんなふうに、自然に国際交流を続けていました。
当時の、あの年代の日本人としては、なかなかできることではありません。
いや、今でもなかなかできることではないでしょう。
迎える奥さんも、大変だったと思います。
本当に、ご苦労さまでした。
そんなOさんが亡くなって、もう10年以上がたちます。
きっと天国でも、相変わらずいろいろな人と交流しているのではないでしょうか。
言葉も国籍も関係なく、
「まあ、一杯飲みなさい」
などと言いながら。
Oさん、ありがとう。
そして、ごめんなさい。
僕が留学するときには、わざわざ奥さんと一緒に福岡空港まで見送りに来てくれました。
ありがとう。
無理なことも言いました。
ごめんなさい。
生きているうちに、もっと素直になって、もっと話をしておけばよかった。
もっと感謝を伝えておけばよかった。
今になって、そんなことを思います。
Oさんと僕は、結局のところ、似た者同士だったのかもしれません。
だからこそ、分かっているようで、分かっていなかったのかもしれません。
Oさん。
ありがとう。
そして、あの時のイタリア旅行で、エスカレーターから落としそうになって、本当にごめんなさい。
今になって、やっと言えました。