今から思えば、背伸びをして、私立の中学に行っていました。
いつ悪い点を取るんじゃないかと、いつもびくびくしていました。
だから、何冊も問題集を解いていないと落ち着かなかった。
勉強が好きだったのではなく、恐怖心から勉強していたのだと思います。
高校3年になると、その先は中学や高校のように、普段通りに上がっていくわけではありません。
大学という選択があり、どこへ行くのかを自分で決めなければならない。
それまでずっと、「点数を高く取る」という目標だけで走ってきたのに、その目標が急にぼやけました。
何をしたらいいのかわからない。
それでも、落ちたら悪いことだと思っていました。
周りは受かって、自分だけ落ちたらどうしよう。
そんなことばかり考えて、勉強が手につかなくなりました。
結果は、これまでの成績からしたら「どうして」と思われるようなものでした。
でも、試験当日はテストどころではありませんでした。
虚脱して、何をしているのかわからない。
今思えば、仕方なかったのだと思います。
浪人しても、特に猛勉強することはありませんでした。
「大学への数学」の学力コンテストをやったり、NHKの「ビジネス英語」を聞いたり。
自分のペースで過ごしていました。
さすがに共通一次の前には緊張しましたが、今度は大体の目標が見えていました。
現役のときほどの動揺はありませんでした。
そして合格しました。
でも、喜びはありませんでした。
ただ、終わった。
そんな虚脱した感じでした。
大学時代も、ただ過ごす。
だるい。
本当に無気力な、ダメな学生だったと思います。
人が信じられないから、代筆を頼んでも、やっぱり自分の名前だけを書きに出席して、また帰る。
国家試験のときには、高校時代にあれだけ勉強できたのだから、国家試験の勉強なんて何ということはない、と思っていました。
そして国家試験に通っても、やはり感慨はありませんでした。
ただ終わった。
また、それだけでした。
本当に、生きているのか死んでいるのかわからない。
そんな無味な状態でした。
人から見れば、目が死んでいたでしょう。
今、生活保護の人や、うつで苦しんでいる人に「少し外に出てみましょう」と言っています。
でも、当時の自分は、もっとひどかったのかもしれません。
留学も、積極的に「行きたい」と思ったからではありません。
ほかの人がやっていて、自分がしていない。
それでは負けたような、後ろめたいような気がする。
だから、行かなければならない。
これも、今思えば後ろ向きな動機でした。
そして、そこで、とてつもなくひどいいじめに遭いました。
死んだような状態の人間は、いじめる側からすれば、いじめがいがあったのかもしれません。
そこで私は、金銭的に裕福な人ほど、やり直しがききやすく、自由度が大きいということを、肌で感じました。
そしてもう一つ、人間の集団というものについても、嫌というほど学びました。
医師とか、先生とか呼ばれている人でも、結局は群れています。
一人で立って、自分が正しいと思うことを言おうとすると、孤立する。
そして、孤立した者は、いじめの格好の的になる。
「正しいものが負けてはいけない」と言います。
けれど、正しいかどうかとは別に、その場を牛耳っている人にとって都合がいいかどうかで、人の扱いが変わることがあります。
長いものには巻かれろ。
結局、そういうことなのかもしれません。
これはどの世界でも、そうなのだと思います。
ひどいいじめに遭い、帰国して、そこから離れた第三者の目で見るようになって、余計によくわかるようになりました。
国家試験にパスして、
「名義貸しでもいい。何もできそうにないから」
などと言っていた自分が、今はその真逆にいる。
これは、なんとも皮肉なことです。
真面目に頑張っている人の側。
世間的に弱い立場にいる人の側。
そこに立っている。
儲からない。
それでも、弱い立場の人を後押しする。
そんな愚直な毎日を送っています。
ところが、そんな自分のところに、
「来てもいないけれど、交通費をもらうために、来たことにしてくれ」
とか、
「何年も来院していないけれど、母子援助が必要なように書いてくれ」
という人が来ます。
これは、さすがにできません。
来ていないものを、来たとは書けない。
治療していないものを、治療しているとも書けない。
生活保護だから、自分の手出しはないから、定期的に来なさいと言って、患者さんをつなぎとめる。
そういうやり方も、世の中にはあるのかもしれません。
社会的な問題を起こさないためには仕方がない、という言い分もあるでしょう。
でも、私にはできません。
ずっと来院していなくて、診断書があれば援助がもらえるから書いてほしいというのであれば、これまで通っていたところに相談するのが筋でしょう。
実際には、どこにも行かず、それで済んできたのかもしれません。
愚直に、真面目にやっていると、そこに目をつけて、ずるを考える人もいます。
そして、そういう人たちは、用が済むと、それっきり来ません。
治療が必要だから来ているのではないからです。
考えてみれば、私は昔から、恐怖心に追い立てられて生きてきたのかもしれません。
悪い点を取るのが怖い。
落ちるのが怖い。
人に負けるのが怖い。
仲間外れになるのが怖い。
いじめられるのが怖い。
そうやって逃げるようにして、医師になった。
ところが最後にたどり着いたところは、効率よく生きることでも、うまく世の中を渡ることでもありませんでした。
損をしても、来ていない人を来たことにはしない。
困っている人には、できる範囲で手を差し伸べる。
正しいと思ったことは、できるだけ曲げない。
なんだか、ずいぶん遠回りをしてしまった気がします。
でも、38年も医師をやってきて、結局、自分はそういうところに戻ってきたのかもしれません。
儲からない。
要領もよくない。
それでも、毎日、黙々とやる。
それが自分なのだろうと思います。