鬼死骸村からの続き。
今度は、中尊寺平泉の方へ。
中世の荘園をそのまま残す所が「骨寺村荘園遺跡」です。
上から鳥の目線でみると、素晴らしいところです。
ここは世界遺産に入っていません。
あまり観光化してほしくないから、
このままにしてほしい。
歴史ファンにとっては、憧れの地。
美しい所です。
歴史に関心ない人は、何もないじゃん。て思う所。
ここは、通過しただけでも数えると、
4回くらい行ってるかも。
この骨寺村に、蝦夷が住んでおり、
追われて鬼死骸村へ逃れた言い伝えがあります。
骨寺村(本寺)
『一関市厳美町の本寺地区は、その昔、
「骨寺村」と呼ばれた荘園で、 中尊寺の経蔵別当の所領でした。
骨寺村については、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』
に村の四方の境が示されていて、 その範囲が明らかです。
また、中尊寺に伝存する古文書や、一枚の『陸奥国骨寺村絵図』によって、
中世の村の姿を視覚的に体験することができます。』
平成17年、国史跡に指定。
平成18年、一関本寺の農村景観として国の重要文化的景観に選定。
『平安浄土の国づくりを理想にかかげた藤原清衡は、
自らの発願による『紺紙金銀字交書一切経』(国宝)の完成に功のあった
自在房蓮光を、そのお経を納める中尊寺経蔵の初代の別当に任命しました。
そこで蓮光は私領であった骨寺村を経蔵に寄進し、
経蔵の維持のための費用をまかなう土地(荘園)として、
あらためてそれを清衡から認められました。
これが中尊寺経蔵別当領骨寺村のはじまりです。』
地名に「骨」がつくのは衝撃ではありますが、
「ドクロ伝説」から由来すると。
鎌倉時代『撰集抄』より、平泉郡にいた一人の娘が、
天井裏の髑髏(どくろ)から法華経を習い、
その髑髏を逆柴山に葬ったという話し。
その髑髏は、比叡山の高僧十八代座主の慈恵大師(じえいだいし)良源の髑髏で、
葬った場所が慈恵塚だと古くから本寺では伝えられています。
このことが、骨寺村という名前の由来になったとも言われます。
ちょっと見づらいですが、12番が骨寺跡とある。
資料館にて、本寺の寺の痕跡が
「まだ見つかっていない」と聞いて、
「まだ見つかっていないんですかーっ?」と食いついてしまった。
だって、他の遺跡は残されているのに、
なぜ一番重要な本寺が見つかっていないの?
と、思ってしまう。謎。
この絵図は、奥州藤原氏に代わってこの地を
支配した葛西氏との所領争いにおける
「裁判の証拠書類」と考えられています。
骨寺村にいた大武丸
鬼死骸村の大武丸とよばれた蝦夷の首長は、
元は、骨寺村にあった西の境に山王窟(さんのうのいわや)
という切り立った岩山があり、
昔「山王の鬼」と呼ばれた蝦夷(えみし)が立て籠もっていたそうです。
→宗像三女を祀っていたという。
山王窟は標高573m。
ヘイダ(坂上田村麻呂:さかのうえたむらまろ)と
激しく戦った場所といわれています。
※ヘイダ・・・勇敢な武将といった意味。
山王窟の入り口
ここにいた大武丸は、
「五串村(いつくしむら:現在の厳美町)」の山奥に立て籠もったと。
市杵島姫命、奥津姫命、田心姫命、を祀り、
厳宮大明神、麗美宮(いつくしみや)という。
しかし一族を率いた大武丸は捕らえられ、
後に「鬼死骸(おにしがい:現在の一関市真柴)と
呼ばれた里で首を切られ殺されてしまいました。
その山王の鬼の首を「祭畤山(まつるべやま)」に、
2人の息子の首を「二子山(ふたごやま)」に葬り
その霊を弔(とむら)いました。
ということで、鬼死骸村の由縁は、
動物の骨や牙などが発見された話から、口寄せにも関係する。
骨寺村にいた山王の鬼とされた人が逃れた地でしたが、
後に、ここは口寄せの祈祷場(守り神)になったそうです。
※個人所有地なのでお参りはできません。(遠くから拝観して下さい)
祭畤山・・・岩手宮城内陸地震があった付近。
頭は鬼首へ飛び、身体は鬼石(鬼死骸村)に沈められたといった話も。
中心は、栗原。
ハイヌベレは豊饒の意味がありますが、
ナグサトベと同じです。
※関連記事
※荘園遺跡のサイト
空からみる骨寺村
栗駒山の豊かな水資源が貴重だったと思います。
ブルーの水。
厳美渓の上流
なぜ、青やグリーンの色なのかは、わかっていないそうですが、
栗駒山の硫黄を含む酸性のためと考えられると。
矢びつ(矢櫃)ダムがあるのですが、
由来は、矢が激しく応戦してエミシが戦ったことから。
ということで、ここは激しい合戦があった模様です。
朝廷は栗駒山の水源を狙っていたと思います。
温泉も多いし。
蝦夷が好んだ場所だったこと、アイヌ、古くは縄文人も集まっていた
と推測されます。
素晴らしい土壌が広がるから、ブナの原生林を守っていた悪路王を思う。
北上川水系にある迫川は、古くから水と森の循環を行っていました。
鬼首の方ですが、荒雄岳に登った時も、ブナの森が素晴らしかった~。
山合いから立つ湯の煙が、一層、幻想の森を染めていた。
磐井川は絵図をみると「石ハ井河」とある。
石の瀬の川。
ここから厳美渓の景観をつくり、照井堰にいたる。
天田振(あまたふり)
話はかわり、最後にこのこと。
「フル」というのは、何の「振」かといえば、
九州の松浦佐用姫のことが関係していると思うのです。
→神功皇后
東北各地に伝承されるヒレ振る姫です。
※松浦佐用姫(鏡山山頂:佐賀県)
大伴狭手彦の妾(つま)で、その朝鮮遠征(6世紀)を
鏡山から領巾(ひれ)を振って見送ったという。
アテルイとモレがいた最北の前方後円墳にも、
酷似している姫伝説があります。
この頃、「イツクシ」のことで調べていた友人に教えてもらった
話がとても興味深いものでした。
ちょうど、児玉氏の先祖を調べていたそうで、
埼玉県金鑚神社(かなさなじんじゃ)へ参拝したと。
以前の金鑚神社があった場所は、「若宮明神社」となり、
祀られているのは、田心姫なんだそうです。
この地の伝説に、田心姫の父神(スサノオ?)とケンカして、
この「アマダ」と言いながら追いかけられ、
「天田」というこの場所まで 逃げてきたという話しがあると。
天田とはなんだ?と調べたら、
「天田振(あまだふり)」というのが出てきたそうだ。
振りといった、ふるべ~の・・・
フリフリと天田振。
ってことは、言霊のふるべ~になる?
それは「クシフルタケ」のことでは?!と、言っていました。
だから、骨寺村の絵図に「伝ミタケ堂跡」というのがあると思う。
「ミタケ」って、漢字にすると「嶽」とか「武」だよね?
五串のクシと、達谷窟毘沙門堂の境内にある「姫待不動堂」では、
「かつら石」というが、これも髪にかけた「櫛(くし)」のこと。
「田心姫は、『古事記』では「多紀理毘売命」、
『日本書紀』では田霧姫と表記。
『古事記』では、別名奥津島比売命、
『日本書紀』弟三の一書では、 『市杵島姫命』の別名とする。
漢字をヒントに
「多」→たくさん(心がたくさんこもる)
「紀」→のり、きまり、すじみち(道=チとは、三千)
「理」→ことわり、すじ、おさめる、キメ」
友達のブログより、面白い。
そして、その金鑚神社に何があるかといえば、「鏡石」です!
田道将軍の道は、「チ」であることを考えれば、「道筋」でもある。
それを通すために、陸奥国へやってきた。
精神世界な話し。
抽象的ではありますが、
「自身に内在することがすべてである」のだから、
内面に宿す姿を、みるべきなのだ。
外から得たものを、みるのではない。
それを「鏡」という。
エミシ崇拝の中に田心姫がいるってことで。
おそらく、栗駒山は、日本海側の秋田県側では
「須川岳」とよび、「ス」の音。
出雲系の音っぽい。
対し、太平洋側の陸奥、宮城県側では「コマ=駒」です。
この違いは、征服した毛野氏らに関係するからです。
(次回にします)
また、別説で、
これが深く調べてないけど、wikipediaに、
「天田振」の意味として、
衣通姫伝説の軽皇子と軽皇女が、でてくるのです。
兄と妹が・・・という話なんですが
何かの裏があって「意図的に創られた話」であり、
史実ではないものとされます。
その内容を用いた和歌があり、その3首の和歌を
天田振というらしい。
これがよくわからんのですが、
なぜ「忍坂」に?
どうしたって、ピンク阿蘇石や継体天皇に繋がるのですよ。
けど、そこまで探る気力は、もうないなぁ。
こーいうのは、調べてわかることじゃないようだ。
参考に・・・(過去記事)
エミシ征伐というのは、総称して行われた事業だった?
それは、「月信仰から太陽信仰へ変った」ことかもしれず。。。
だから、女性的に感じるのは表にあった光とは、
元来、月だったかもしれないね。
月の姫、
だったら、しっくりくるな~。
次は、骨寺村に祀られている駒形根神社を二社
紹介しておきます。
まだまだつづく