本気のヒタカミ。

 

ここ数年の出来事、
貞観の頃が集まっているような。

貞観年間とは、平安時代の859年から877年まで、
清和天皇、陽成天皇の代の元号。

だから、ここでちょっと触れておきたい。

その流れが良い方向に進めば。
帆をあげて。

 

 

 ヤマトタケルを合祀する意図

 

前回のつづき、

 

 

 

唐桑半島にある御崎神社の祭神に

「気仙麻大島神社」があった。

その神社は、石巻旭山に鎮座する。

 

 



気仙麻七郡の鎮守といわれ、
朝廷に並び庶民の尊崇あつく
明治時代にヤマトタケルを合祀。

「三代実録」によれば、貞観元年正月
清和天皇即位の大礼に際し
京畿七道の諸神に対し神位昇叙のことあり。

陸奥国では従五位下勲四等の
計仙麻・志波彦・拝幣志・零羊崎・志波姫の諸神とともに
従四位下に神位を進められた。」


えーと、

神々を国家(朝廷)に対して功労のあった場合、

位をあげること。(災害を治めたとか鎮圧したとか)

従五位下(じゅごいか)から従四位下にあがった事。

 



「京畿七道の諸神に対し」というのは、
美称なのだと思うが、この神に対して祀られたのは、諏訪の神。

なぜ、諏訪神なのかは、後で。

古代、気仙沼は「計仙麻」と書き、
アイヌ語のケセモイ(南端にある入江)の意味や
船着き場の「かせ」の由来などがある。

 



明治政府は、東北の神々を精査していた。
明治天皇の巡幸というのは、宗教や政治力に影響を与える
モノは処分(東京へ)され、祀られている神をも変えている。神武東征にならって。


自らを「現人神」とし、
庶民に神は天皇であることを知らしめるために。


 

ということから、
日高見の地=安部氏の本拠地(あるいは金)から、
日高見討伐をしてきたヤマトタケルを祀ることになった。

ただし、当時の日高見とは、東北地方の広い範囲のことをさしていた。

ヤマトタケルの東国征伐についてこんな神話がある。

蝦夷を平定した後、日高見国から帰って常陸(茨城県)を経由し
甲斐国(山梨県)に到着し、酒折宮(さかおりのみや)に来た。

その際、ヤマトタケルが食事をしている時、
新治や筑波を過ぎてから何夜過ぎたか?

家臣に尋ねるが、だれも答えられなかった。

そこで、燭(あかり)番人が、ヤマトタケルにこんな歌をよんだ。

「かがなへて 

夜は九夜 日には十日を

日数を数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。
尊は燭(あかり)番の賢さを褒め、褒美を与えた。」


続けてヤマトタケルは、こう言った。

「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。

ただ、信濃国(長野県)と、
越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、
いまだに朝廷に従わないでいる。」


※酒折宮は、元々月見山にあり、

三角錐のかたちをした「神奈備山」だった。



大地震や噴火が起こるのは、「蝦夷が騒ぐから」
と、言われていた。

鎮めるために朝廷は、地主神を昇格をさせてきたことがある。

 

 ニニギノミコト



気仙麻大島の共通する神は、ニニギノミコトとホムタワケ(八幡)。

ヒタカミを祀っていることを考えると、
ヤマトタケルと竹内宿禰も、ニニギノミコト。

武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、
地形と百姓の様子を視察した。

帰国すると、蝦夷を討つよう
景行天皇(ヤマトタケルの父)に進言した。(日本書紀)

竹内宿禰と神功皇后と一緒に三国征伐をした話は、
新羅討伐のことで、神功皇后が登場する話に、

「瀬戸内海の水軍」が深く関わる。

神功皇后は、大和から九州の筑紫へ水軍を移動中に、
軍港であった那波浦に立ち寄ったとある。

また、皇后は、
大海に出ると「魚たちが集まってきて船を背負って泳ぎ
船は追い風に乗って~」
とあるように、「魚の人」に助けてもらっている。

 



たちまちのうちに新羅国に達したと言われているから、
神功皇后の指示をしてきたのは武内宿禰で、
その資金や航海技術のサポートをしたのは、
魚の人=ハタの海人族だろう。

※秋田物部文書では、武内宿禰ではなくウマシマジとされる。

また、牧山に鎮座する零羊崎神社の由縁では、
神功皇后の勅願に依り東奥鎮護のため牧山(龍巻山)
地にこの神を鎮め祀るとある。

 

 



これらの話から瀬戸内海を掌握してきた、
熊野水軍、村上水軍、安東水軍といった強い海賊が、
東北に移住してきている。


※海賊とは、古来は一般的に言われていた言葉なので、
財宝を盗むような海賊とは違う。


のちの安徳天皇の瀬戸内海ともつながり、
東北に逃れた源義経も、水軍と関わっていたと思う。

ニニギノミコトにしたのは、大和朝廷がヒタカミの地にあった
地主神(ワタツミ)を変えたい意図があったと思うが、
この海民の思想が、石巻の三角形にある。

 

 



水の神(十一面観音)をまつり、
その三角の中心が、旭山気仙麻大島神社だから、
大島の海神を魔よけとしている。


その場所に、鬼退治の桃太郎の石碑を置いているのは、
鬼を金華山としてみているから。

 

「日本一桃太郎」岸信介筆


これが偶然だとしたら、相当、見えない力が働いているとしか思えない。

(大島亀山の気仙麻大島神社)

 

 

御神体は、大きな石。


山神を祀るコノハナサクヤヒメは大山祗神の娘。
三島鴨神社の鴨氏のシマ文化が繋がっているとの事。

三三島(さんみしま)

①伊予の大山祗神
②伊豆の三嶋大社
③大阪の三島鴨神社

事代主を祀っている。

 


だからなのか、主な気仙麻大島も3つが祀られる。
三つの大島→大三島?

 

 

 


それ以前の海神(わたつみ)という地主神がいたところに、
神位を昇格させた時期が、貞観と書かれていることから、
この時に、何かがあった。

それは、東北に多い天変地異が関わる。

 

 災害の歴史

 


東北の古代史において「貞観」となると、
災害の歴史しか浮かばない。

この時代、富士山大噴火、直後の阿蘇大噴火。
また、貞観大地震と津波。
非常に災害が多い時代だった。
これがきっかけで、天台宗が広まる。→奥州三十三観音霊場。

東北は、常に地震、津波を受けている地。

しかも阿蘇噴火は2回おきている。
 

↓5月26日に多い大地震(千葉と連動している)

 


現代科学でも証明できない地球の躍動。
説明できないものは、なんでも祟りにしてきた。

今では人工地震にされる。

そんな、生半可なものじゃないんだぞ!


「計仙麻・志波彦・拝幣志・零羊崎・志波姫」
これらの神々は、日高見国の地主神。

拝幣志は「はへし」と読むが、
ハウシワケと言霊が似ている。

地元の言い伝えでは、石巻がヒタカミの中心地にあったと。

青森が最初だったかどうかわからないが、
海ルートを考えると、日本海~青森~南下した方が
弥生時代の土器をみると、青森の方が古い。

稲作も相当古くから青森に伝わっていたようだ。

過去にもめていた零羊埼神社は2社あり、
牧山ではない方のほぼ廃墟化している方は、阿部氏と白鳥の名が記されていた。

 

 

 



どちらが元祖なのか?の論争は、

どちらがヒタカミとして君臨してきたか?にも聞こえる。

牧山中心に、北上川を遡上してきたヒタカミの聖地に、
ワタツミ、安倍氏、丸子(和邇)氏がいる事。

東北のワタツミは、九州からきている。

 



神功皇后が筑紫にいき、武内宿禰がサポートする。
それらの資金を動かしてきたのが、秦氏。

隼人や熊襲が東北に逃れ、蝦夷と同化されたから、
ヤマトタケルはヒタカミを追いかけてきた、という伝説にしている。
(正確にいえば、神功皇后の子孫:息長氏)

出雲の神々の上に稲荷をおいている秦氏だから、
海民の聖地に稲荷を置いてきた。


だから、大島亀山の気仙麻大島神社は、
ウカノミタマで、稲と田の神。

 

神紋は、月と九曜紋(奥州千葉氏)

菊池氏は岩手県に多く移住しており、
阿蘇を崇拝していることを考えれば、
ヒタカミ封じとは、天変地異を治めることでもあった。

朝廷が諏訪神を祀るように意識したきっかけも、
富士山の噴火にあった。

埼玉県は富士山に向かって多く古墳が祀られている。
富士やその周辺の火山活動の影響、
具体的には大きな噴火災害を受けていたことが起源になっているという。

諏訪大社社殿の配置は、二等辺三角形により火山祭祀をするためとも言われる。

 

 

 クシフル日高見



前回、唐桑阿部氏のことを書いていたけど、
唐桑の阿部氏は、一関山目、厳美町へも関わっていた。

『古里零れ話 唐桑史談』の本の中に、

「唐桑阿部氏の出自は一の関臥牛が城である」と。

それが三釣木(みつるぎ)氏だと言われ、
古里の唐桑半島から遠く離れた一関厳美の山中
唐桑阿部氏ゆかりの武士が落命したとあった。



現在の山目中学校にあったという城跡のそばにあるのが、
配志和神社だった。
ここもニニギノミコトを祀っている。


※配志和神社の劔坂

配志和神社(はうしわけ)とは、
秋田県横手市にある波宇志別神社があり、
志津川の保呂羽山(男保呂羽山、女保呂羽山)にも
波宇志別神が祀られている。

保呂羽は、秋田物部氏に登場してきたが、
ある説だと「天日鷲神」という。
忌部氏。



火石輪という4つの石。

 



ということで、唐桑の安倍氏が一関に繋がったことがよくわかった。
以前、行っていたこれらの石碑。

唐桑半島にいた安倍氏の子孫に

関わる人たちの信仰が、厳美渓のそばにある。

これが深い世界に・・・

 



数年前に訪れた時に偶然発見した「御崎供養」の石碑。
坂上田村麻呂がきていた「駒形根神社」の裏にあった。

 

 

御崎供養

 



悪路王がいた骨寺村のそばに
竹駒神社(岩沼)、塩釜など宮城県の石碑もあった。

 



「神聖なる樋口御山が岩手宮城内陸地震、
東日本大震災の下、国道342号線拡張工事に伴い、
この処に平成26年12月28日に鎮座す」

 

 



竹駒碑(岩沼市)
塩釜供養碑
御崎供養碑
横山碑(登米市横山不動尊)
菩薩碑(如来になるための修行の仏様)
月天・日天
不動明王

このあたりは、阿部貞任がいたことも多く書かれており、
阿部氏の本拠地でもあった。

 

 

駒形根神社の裏にあった大森館跡。

阿部貞任が一時、居住していたと言われる。

 



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その厳美町の地名に「串」があったことを思いだした。

 

五串の地名。→5個の団子=上賀茂神社の淡のこと。

 


串良(くしら)=クジラだから、鯨信仰。

クシラ→クンピーラ(金毘羅)=ワニ。
そのワニは、ガンジス河の霊魚。

つまり、日本で魚を多く崇拝している理由は、
インドでは、ワニであるため。

ワニ=魚

それが天孫降臨の高千穂「くしふる」のことだった。

石巻の牧山は「真野」という地名。
安倍氏と思われる方の零羊崎神社の裏手の山は
「上品(じょうぽん)」山で、
久集比奈神社というのが祀られている。

この意味が、『石巻市史』によれば、
奇日嶺(くしひね)の由来からであると。

「日のあたる山陵」
の意味で、祖霊がおり宿す山

という意味。



それを、「櫛ひ大明神」や「くしふる大明神」とも呼ばれ、
あの蝦夷の伝説、櫛の姫がいた所だ。

達谷窟毘沙門堂のそば。


※姫待堂

蝦夷はここで姫を待っていた。

 

中国で「丸」のことを「ワン」と呼んだ。
ワンの「ン」がぬけて「ワ」になり、
丸子は、「倭」の人となる。

倭国が、日高見国を征服したのではなく、
和合の統一のために、大和は、東北を目指した。


マロはアテルイの日神、モレの月神を背負い、
都に返そうとしたけれど、藤原氏に止められて終わった。

 



 

秦伊呂具=坂上田村麻呂=伊達政宗。
霊統が似ている。
やり方もよく似てる。


阿部・安倍氏は「日本最後の母系民族」

と、私はみている。

その蝦夷が崇拝していた聖地、
集まっていた聖地こそ、
石巻~一関周辺、唐桑半島にあった。

 

だから、

日高見国の中心が、

石巻にあった。

 

という言い伝えは、本気の言霊で、

そこに住む人は信じている。


そこにアラハバキを祀っていたので、

南朝の皇子が葬られたという。

 

あの場所を悲しみのまま、

留めておいては、ならない。 

帆をあげて進めよ、と。

 


なぜ、唐桑半島の御崎神社に「宮崎県」なのか、
よくわからなかったけど、天孫降臨地のクシフルでわかった。

東北の天孫降臨の地にあったのは、
そこが、ヒタカミの聖地だったことを物語る。

内陸は鯨がとれないので、串として祀ったので
「五串」となった。
「いつくし=斎し」

 



この話、牧山の魔鬼女のことでいろいろ書いていた。

石巻あたりは、黒潮と親潮の洗われた大湾だった。
続縄文文化(北)と東国の融合地。

みちのくの卑弥呼は、九州からきたのだろう。

ずっと前に書いていたこと。

十種神宝のフルは、
クシフルの「フル」で、ピラミッドの正四面体。
旭山を三角にした理由が、ここにも繋がる。

 




蝦夷は、鯨を崇拝し、櫛の姫を待っていた。

滝に向かって祈っていた修験者たち。

 


 

それは、大きなイワクラだった。

 



姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪をかけた石を
「かつら石」という。


達谷窟毘沙門堂の近くにある。

蝦夷がたくさん集まっていたところなので、
点々と悪路王伝説があり、
厳美町にいた悪路王は、鬼死骸村へ逃れたという。

頭は鬼首へ飛び、身体は鬼石(鬼死骸村)に沈められたと伝わる。

 

 



北:鬼死骸村の鬼石
西:鬼首温泉郷
東:石巻(牧山)

ハイヌベレは、大体、3つにわけるので、
三角形ができ、中心は、コレハリ(伊治)の栗原。

 

祝詞は、内在する神に気づくまつりごと。 

 

もう、神社へは足繁く通うことは、

なくなった。

その意味が何か、自分の生きている地が、
どのような歴史をたどってきたかを知れば、世界は変わる。

 

あー、すっかり変わったなあ。

と、言ってみる、

今、脳内、天孫降臨中。UFOクラッカー

 

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ということで、ざっとまとめたつもりだけど、
まだまだたくさんある。

歴史を正しく調べるより、
ヒタカミの歴史を、引き寄せる。

あえて、よせる。


東北に、戻すこと。

なんで、こんなに長く東北を書いているのかっ!

自分で何か、腹が立つな。


安倍氏がずっと見えなかったのが、
唐桑半島でだんだん見えてきた。

日高見国は、安倍・阿部氏・物部氏にあり・・・

 

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さて、この唐桑半島がとてもユニークな文化をもっている。
日本が多民族国家だったことの証。

船で運ばれた種は、
密かに大地に根をはって暮らしていた。

どうやら、守らねばならないものは、
他にもあるようだ。

「日本の食を守れ」
ある水軍が伝えたいことがあるらしい。

どんどんいくよ。コアラ