『遠野物語』を今の若い人たちは、知っているのかしら~?
もう都市伝説とかと同じように感じてるのでしょうけど・・・
ホンモノです。真顔

映画はまだみてないけど、
「ゲゲゲの鬼太郎」がヒットするうちは、
日本はまだまだ、未来があると思うよ~。ニヤリ

 

過去にいった遠野の世界を。

 

遠野物語が広まったのは、柳田國男が民俗学を研究していた時に、
遠野出身者の佐々木喜善を紹介されて遠野物語として完成されました。

遠野物語は、民俗学の学問として取り上げられるようになります。
最初は、外国人のために伝える目的だったようです。
 
「此書を外国に在る人々に呈す
~柳田國男「献辞 『遠野物語』」という記録あり。

遠野物語の特徴は、ほとんどが名前、場所を明確にしているところです。
そこが一般的な昔話とは違うので「遠野物語」としているわけです。

中には残酷な話もあり、江戸時代の飢饉の頃など、
全国的にありましたが、今ではタブーな出来事が遠野物語に見えます。

もう、事件です・・・な、話もありますが、
遠野物語への憧れはあり、いつかそんな物語を集めたいと思って
始めたのが、この、まほろばブログでした。

妄想が激しいブログなのが残念なとこではありますが・・・ヒヨコ

しかし、柳田國男自身が遠野物語にはまってしまうわけですから、
気持ち、よ~~くわかります。

そうなんです、
『遠野物語』は、くせになるのです・・・。てへぺろ

 

 

遠野物語第1話。

 

大昔に女神あり。

三人の娘を伴ないてこの高原に来たり。

今の来内村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、
今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、
夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、
末の娘目覚めて窃(ひそか)にこれを取り、わが胸に載せしかば、
ついに最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。

若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故に、
遠野の女どもはその妬を畏れて今もこの山には遊ばずといえり。

  

夏の早池峰山

 

 

六角牛山

 

 


■水は、生も死も受け入れる-------------------


2016年の過去記事より。

 

五百羅漢

遠野市内から徒歩30分くらいのところにあります。
鍋倉城から歩くコースもあり。

 

 



200年余りに東北地方に襲った大飢饉に心を痛めた
大慈寺の義山和尚が犠牲者の冥福を祈り、自然の花崗岩に羅漢蔵を彫ったもの。

大きな石がごろごろ集まっているのですが、
宿泊した民宿御伽屋のオーナー曰く、誰かが石を運んだのではなく、
遠野の山は石がごろごろたくさんあるので、
ここも自然に前からあった石だと思われる、と。

 



羅漢像のある入口すぐのところに、不動明王が石に刻まれている。

なので沢の音が聞こえるところに、石が積まれているようだ。

 

 



水の流れるところに石を積んでいるのは意図的におかれているのであって、
犠牲になった子供たちが新たに水(胎水)に
生まれ変わることを祈ってつくられたかもしれない。
地下水に恵まれた森の中で、静かに眠っている石たちでした。

 

 

 

 

 

 

 

程洞(ほとぼら)コンセイサマ

 

羅漢像から歩いて15分くらいのところに、
程洞稲荷神社がありそこにコンセイサマ(金精様)が
祀られているというので行ってみた。

 



この日は雨が降ってきて、くら~い山道でちょっと怖い。
ここも山に入るとガラッと空気が変わる。
いくつかの赤い鳥居をくぐり、胎内くぐりのように神社へ向かう。

 

 

願掛けがすごかった。

今はもうないだろうけど、用紙に書かれた願い事がそのまま置かれていた。

 

 

婦人病に御利益があり、また出産、あるいは、流産などの供養、

子どもに恵まれないなどなど、多くの女性たちの悩みを

聞きいれてくれる神が、ヤタガラスである。

 

   (ぼやけた)

程(ほど)は、「ホト」のことだろう。

秩父の宝登山(ほどさん)と同じホトに通じる。

 



ホトは女陰の古語でもあるし、製鉄・鍛冶用語の火処・火床の意味もある。
なので、コンセイサマをお祀りしているのだろうか?
 
この神社は、中世遠野領主阿曽沼氏の一族であった
宮道義が同家の鎮守として勧請したと伝わる。

 



境内には烏神という小社があって婦人病に霊験があるといわれ、
参詣する者が多かった。

また境内には杉の老木が多く冷泉があり、眺めもよく避暑地に適している。

なぜか、日大芸術学部が寄贈している。
水神様も祀られており、ここにも湧水があった。



遠野に来て山に入ると、生と死が同じ空間で共存している気がする。

水がその役目をはたしていると実感できるような場所。
鳥居に入り、黄泉の国に。

鳥居を出ると現世に戻る。

歩いて帰る途中にみかけた石ゴロゴロと湧水。

そういえば石や砂は濁った水を飲めるように綺麗に浄化する作用がある。
石と水は昔からの叡智を崇めた証なのかもしれない。

 



他にも程洞稲荷神社内には、石像もあったりしたようだが、
後になって知ったので気付かず。
コンセイサマを見たのは、他に2か所目撃。。。

初めて来た時は一度もお目にかからなかったのだが…。

観光名所の伝承園と福泉寺にも。お寺であろうが観光地であろうが、
遠野にはコンセイサマが多いのだ!

 

※後日談:この後、子宮の鈍い痛みが続き、どうもおかしいので、

数日後、産婦人科へ行くはめになった。原因は不明。

 

誰もがお願いしたい卯子酉(うねどり)さま

 

「遠野物語拾遺35」
※遠野物語拾遺とは、昭和10年に再版された『遠野物語』の
増補という形で刊行されたもの。



 

「遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉様の祠がある。
その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。

昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願を掛けると、
不思議に男女の縁が結ばれた。
また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。」

 

 

 


遠野一帯が大きな湖があったその昔、鯉の背にのって
宮家と倉堀両家の先祖が猿ヶ石川をさかのぼってここに
たどりついたという話がある。

 



境内の小さな池は、淵のあとでここの片葉の葦に恋の願いを
書いた紙を結びつけておくと願いがかなうと伝えられる。
 
桜に隠れる恥ずかしがり屋の卯子酉様。
みんなの願いは私の願いでもある。
少しピンクの光がみえた。
ここは優しい所。

 



遠野に限らず東北地方では出羽三山の石碑を多くみかける。
愛宕神社の入り口なのだが、この神社の上には縄文遺跡があったという。

 


 

愛宕神社は火の神だから、火と水の世界があるのかもしれない。

 

 

カッパ淵

 

カッパの話で遠野といったらここ。
ここを見ずして遠野は語れないほど有名なところ。

 



でもカッパ淵も5か所はあるという。

まあ、ここだけっということはないだろうし、
遠野以外の地域でもカッパ淵はたくさん伝わっている。
 
子供に伝えるには惨酷な話だが、貧しくて食べていけなくなると、
子供を川に落とす(死なす)ことがあったとか。
昔はこのあたりの淵はもっと深く、流れも速かったそうだ。
子を失くしたことを「こけし」ともいう。
 
ここはかつて安倍屋敷があったところでもあり。

 


 

遠野には安倍貞任の伝説がたくさんあり、昔は栄えていた。
堀も残されている。

 

 



「ダンビラ祭」というのが伝わっていて、
明治の始め頃まで2月15日に近郷の山伏を一堂に集めて
湯立の儀式を行い巫女が笹を降りながら巫女舞を舞ったといわれる。

湯立ての儀式は、古代は禊の意味があるという。

由来は、応神天皇の頃、竹内宿禰の弟が何かをしてしまい、
宿禰は潔白を主張したので、天皇は釜湯を沸かし二人の
指を入れて火傷しないかどうかの儀式をしたという。
(火傷しなければ正しい)

他にも河童伝説はある。

 



遠野郷八幡宮に「カッパ石」がある。
説明書きを読むと、

 

 



「この石にカッパの霊が宿れり。
民話の里、遠野の総鎮守なる八幡宮に相応しき石なり。
故にこの石をカッパ石と名付け八幡宮の手水石として用いるものなり」

 


   
広々とした神社で気持ちがよい神社。

(写真:カッパ石と鍛冶神社)

 


 

初めて見かけた「鍛冶神社」。
目立ってこの神社だけ光があたっていた。
産鉄族の里でもあった遠野。
カッパはそのような人たちだ、という説もある。

 

 

遠野八幡宮のお祭にでくわす。

 

 

蚕神のオシラサマ

 

関東では群馬県は、古くから養蚕が伝わっている。
オシラサマの話のように養蚕は女性が支えてきた。

 

「お知らせ」するオシラサマ。

 


養蚕を伝えたのは雄略天皇の説があり、養蚕をすれば国が豊になるからと、
おしすすめていたそうだ。

オシラサマの話は修験が作り、中国の捜神記から伝わったとされる。

 

 



仏教の東北進出や、修験者は知識のある人と捉えていた。

写真:伝承園のオシラ堂。ここでは願い事を書いて
馬or女性をかたどった木の棒に洋服のようにかけて置いておく。

 



狭い部屋で非常に気が強すぎて具合が悪くなる人が多いと聞く?

いや~、どうだったか覚えていない。
しっかり、写真は撮っているが・・・。

 

宮城県の「のの岳」で、オシラサマ信仰があった?と思う体験をした。

白山堂をお参りしたことから。

 

のの岳に行った日のこと。

夜、寝ていると軽い金縛りにあい、なぜか、その時、私は

「あなたは誰ですか?」と訊ねてしまった。

 

すると「のの岳山の女です♪」と、歌をうたいながら明るく答えてきた。

地元では、のの岳の由来説のひとつとして、

「のーの」さんという神子のことを示すと言われる。

 

こんな体験をすると、怖いと思うかもしれないが、

なぜか、安心感がある。

いつもそんな感じであの世とこの世の間に、世界はある。

岩手県立博物館
「遠野物語69話」オシラサマの話は、以下のサイトへ。

 

 
この時、伝承園にてタイミングよく昔話を聞くことができた。
 


(平成)天皇皇后両陛下がお座りになったのと同じ席に座って聞く語り部。
感無量。
 
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遠野では馬が家計を支える大事な家族の一員だった。

狼が馬を襲ってしまうことで、狼でもって狼を封じるという考えに基づき、
三峰神社を建てた話もある。
 
 

狂犬病などが原因で狼が絶滅したといわれるが、
外来種が日本に渡ってきたことで、絶滅したり疫病などが流行ることがあった。
狼は外国からやってきた犬や動物によって弱くなっていったと考えられる。

ネアンデルタール人とホモサピエンスも同じように最初は互いに共存していたが、
次第にホモサピエンスのDNAが濃くなっていき、生命は進化してきた。

動物との婚姻ばなしは、異文化の融合を現している。

 


ほんの一部ですが、遠野物語は、人間が生き抜くための民俗史でもある。

 

 

 

※遠野ビールはおいしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

五日市のキツネの関所
 

 

「町場にくる村びとたちの楽しみは、茶屋酒を飲みながら
ほら話をふきまくることでした。
帰り道、かかさまへのみやげに五十集(塩魚や干魚)を
首にかけ、夜ふけにこのあたりを通ると、美しい女が
「風呂に入って酒っこあがんせ」とほほえみながら誘いかけ・・
・夜があけるとわが身は泥田やこえだめにつかり、

みやげはとうに消えていたと。ドンドハレ」

 

 

「追分の碑」

 

追分の碑は、遠野郷の古道の別れ道に神々の石碑や石塔を置く場所。
ここは「右八おおつち」「左八はやちね」と、塩と信仰の道を示している。
追分とは道が2つに分岐しているところをいい、別れの意味もある。

 

 

 

 

サルタヒコ(右)の藁人形。

 

 

道は続くよどこまでも。

 

 

他にも、遠野はこちらも参考に。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、遠野のイワクラを紹介。

 

つづく。