今年の9月の連休は、特に出かけず。
過去記事のブログをまとめておきます。
9月の今頃、どこにいってたかな~と、
過去記事をみてたら、早池峰神社がヒット。
7年前の9月。
早池峰山のことについて知ったのは、
当然「遠野物語」で。
猟師が鹿を追っていたら、
早池峰山まできてしまい、
山頂に、その鹿が神々しくおりました。
と、ずいぶんざっくりすぎますけど。
たしか、額に月マークがあった鹿なんだよね。
まあ、創作なんでしょうけど、
それが鹿舞になってるのかな?
という資料からちょっと参照。
江戸時代、早池峰山は十一面観音の山といわれた。
中期頃、この山の姫神は、瀬織津姫
との考え方が定着。
十一面観音以前は薬師如来の信仰があり、
薬師から十一面観音に変わった。
三人の姉妹の伝説がありますが、早池峰、羽山、胡四王山
(ちなみに、胡の漢字は中国の北方、
西方の異民族をさし、えびすともいう)
の三山も薬師如来を勧請、羽山の縁日は薬師と同じ日になる。
各地にある三山姉妹伝説では、
姉は如来、妹は菩薩と考えられている。
長く姉に座すのは早池峰山(薬師様)で、
その座を奪った妹は、十一面観音であるという解釈。
そっか、虚空像さんは空海派。
薬師から十一面なのですね。
ほとんど、十一面観音にされてますもの。
黒石寺・・・本尊は薬師如来。
胎内山神社を想う。
薬師の方が古い。
徐福さ~ん。
であれば、やっぱり宮城の大和町の七ツ森は、
そうだったと思うの~。
これは、
仏教の交代を意味しており、
元はお堂はない、イワクラ信仰であった。
後に観音堂と阿弥陀堂をたて、
観音、薬師、阿弥陀と三所権現とされた。
岳妙泉寺の由緒によると、
早池峰山山頂には磐座(イワクラ)の薬師、
大宮(本宮)の観音、阿弥陀とそろったことになる。
そして、なぜ、出羽三山信仰に、
元あった葉山がなくなったのか?
それが、三山信仰の形態の為だった。
三所権現形式は、出羽三山の影響を受け、
三山形態を取り入れ、出羽三山の葉山が抜け、
湯殿山を入れたのは、
葉山(羽山)信仰の薬師から
観音へ変更したことがある。
金沙大神(↓)
遠野物語69
昔、附馬牛村の某という者、旅をしてアラミの国を通ったところが、
路の両側の田の稲が、いかにも好ましくぐじゃぐじゃと実り、
赤るみたれていたので、
種籾にしようと思って一種摘み取り懐にいれて持ち帰り、次の年に苗代を蒔いて
みるとオサ一枚になった。
それは糯稲(もち)であったので、
今年はどんなに良い餅がつけるだろうと、
やがて田植えをするとどのオサも青々と勢いよく育った。
ところが或日アラミから人が来て、この家の主人は去年の秋、
おれの田の糯稲の穂を盗んで来て播いた。
此田もあの田も皆盗んで来た稲だといふ。
そんな事は無いと言って争って見たけれども、
それならば此秋の出穂を見て、
証拠を以て訴へると言って帰って行った。
某はそれを心痛して、どうか助けて下されと
早池峰山に願掛けをして、御山に登って御参籠をして祈った。
その秋は果たしてアラミの人が又遣って来て、
共々に田に出て出穂を検めて見ようといふので、
仕方無しに二人で行って見ると、たしかに昨日まで糯稲であったものが、
出た穂を見ると悉く毛の長い粳稲(うるち)になって居る。
そこでアラミの人も面目が無く、
詫びごとをして逃げるように帰ってしまった。
是は全く早池峰山の御利益で、
此稲は穂は粳でけれども本当は糯稲であった。
それを生出糯(おいでもち)といって、
今でも其種が少しは村に伝はって居る。
それからしてこの御山の女神は、盗みをした者でさへ加護なされるといって、
信心をする者が多いのである。
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アラミの国とは、水沢や北上あたりをさすそうです。
ところで、早池峰神社のあるところを「大出」というのです。
これを「おいで」と読むのだが、
仙台の太白山も「おいで」と言います。
「生出森(おいでもり)」と言っていたので、
大出と同じではないか?と。
意味は水の湧くところを「おいで」といったらしい。
御伽屋さんの「不思議空間「遠野」ブログ」によると、
早池峰神社が建立された後、
慈覚大師によって七つの観音が彫られ、
それを各地に祀って遠野七観音となっているそうです。
観音を彫りあげた1本の松の木(桂の木説もあり)を洗った
地が沢の口といい、
やはり早池峰水系の水が流れる地。
この沢の口、そして早池峰神社に向かう途中の小出と大出。
全て一連の川の流れの範囲内であるという。
田村麻呂伝説に附会した説話
遠野物語を伝えた佐々木喜善は、
田村麻呂伝説、奥浄瑠璃「田村三代記」に
附会した三人姉妹の説話を採集している。
往古、坂ノ上田村麻呂が蝦夷征伐に来られた時、
土地の女で立エボウス姫という(立烏帽子)
美人が居りましたが、
これに蝦夷の大将株の大岳丸というのが恋文をつけたにかかはらず、
却って侵入者の田村麻呂に款を通じて、大岳丸の方の戦さを
不利に堕ち入れました。
そんなことから田村麻呂と仲がよくなって娘を三人産みました。
其の娘の名前は、おろく、お石、お初とか
云って今の遠野郷上郷村の来内付近に
住んで居たのでございます。
而してお母さんは、田村将軍のおひいきになる位の女性ですから、
知識もあったものと
見えますて、土地で祈祷したり、
医者のようなことをしたりして娘ども成育させて
いったのであります。
また、其の娘どもも齢頃になってから、
母の業を継いで神に仕える女性として、
色々な事をして人民を助けていましたが、
遂に、おろくは六角石山に登り、
お石は石神山に、お初は、早池峰山に登って
山神に仕えたという伝説でございます。
※六角石神社
巫女が何であるか庶民に伝えることもあり、
説話として記されたものといわれます。
しかし、早池峰山の女神信仰は、
どこからもたらされたのでしょうか?
遠野物語126
狩人の話より、早池峰山の主である十一面観音は、
三面一本脚の怪物だという。
「大黒様のお腹仏」とも伝えられ、
大黒の黒が、黒森となり、
自然説だと、針葉樹のように葉を落とさない
黒々とした森を意味し、
落葉樹は葉を落とすので白いと描写される。」
どこかで白山信仰と早池峰信仰の白と黒の描写にみえるが…。
黒森山という山が宮古市にあり、
開山が大同元年(806年)。
早池峰神社も大同元年の創建とあり、
大黒天や大黒様が、早池峰神の姿と重ねられているのですが、
そこに「大同の年号がある」のです。
鉄や金の意味も含まれていると思いますが、
坂上田村麻呂の蝦夷征伐には「大同」
の年号がしつこくつきまとう。
必ず、大同元年か大同2年とされるものです。
遠野物語の柳田国男は、
「大同二年は何故か知らぬが我邦の伝説の上で、
極めて多事なる年である。
殊に東北地方では弘法大師も田村将軍も
共に此年を期して大いに活動して居る」
大同について、遠野物語によると、
遠野物語24
村々の旧家を大同と云ふは、
大同元年に甲斐国より移りきたる家なれば
かく云ふとのことなり。
大同は田村将軍征伐の時代なり。
甲斐は南部家の本国なり。
二つの伝説を混じたるに非ざるか。
「東北学・忘れられた東北」赤坂憲雄著によると、
「この大同が、大洞(おおほら)という東北の家門、
族ということと書き記されている。
大洞家は遠野の草分のイエのひとつである。
その旧家をめぐって「遠野物語」には
他にもいくつかの話が拾われている。
(遠野の千葉家とガド石)
大洞家に伝わる正月の門松を片方だけ地に伏せたまま
注連縄渡す風習、
オシラサマやオクナイサマの神像とその祭り、
怪異の起こる小部屋などといったものだ。
柳田はこの旧家の屋号の由来を、
ヤマトの年号がわからないのではなく、
家門や族を意味する東国方言のホラとの関わりについて説こうとした。
遠野だけではなく、各地にも大同年号がみられる。」
「大同はヤマト王権による東北侵略の
固有に印つけられた年号である。
田村麻呂伝説に不可欠の年号として織りこまれ、
その結果として、
伝承レベルの生きられた歴史の一端を過剰なまでに担ぎ、
不断に活性化しつづけてきたということだ。」
早池峰神社に九曜紋があった。
車輪かな?
伝承では、九曜は平家が伝えたものらしく、
日月星の光が集まったもので、
その中に妙見様が現れたことにある。
遠野の千葉家は妙見信仰です。
秩父神社の妙見さんの前は・・・
(初代)青龍だった。
なるほど。
池で暴れるからって、
鎖で繋がれたんでーぃ。
もう少し、遠野の話をつづけま~す。