東北は、あまりにも逃れた人々が多すぎて
いろんな氏族と婚姻を結びすぎているうえに、
語らない、言わない、声をあげるのは、藤原家。
「密かに」暮らしすぎ。
山深くて迷う、目的をすぐ見失う。
して、落馬する運命にされる。絶望

蘇我や物部といったあの時代の氏族も、東北へくると皆、一緒。
それどこじゃなかった。
北方の蝦夷が強かったから。

東北に混在する物部氏と蘇我氏の歴史を。

 

そうそう、三神合神社にいた聖徳太子みたいな像は、

こんな雰囲気(これをもっとゆる~くした感じ)

 

 

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明治時代、廃仏毀釈の時、蜂子皇子の像を地中に埋めて
必死に守ったという話を知人から聞いたことがあります。

それほどまでに大教祖となった蜂子皇子とはどんな存在なのでしょうか?
でも、ここはロマンをひろげる。

私は、母である小手姫の方が興味がわくんですけど、
いろいろ書いていることなので割愛しますが、

日本海の出羽は、蜂子皇子(息子)
太平洋の陸奥は、大伴小手姫(母)
という図が浮かぶ。。。

バラバラに逃げることで一族を守ってきたことはよくありますが。

 

その山形と福島を古くから繋いでいたのは
羽黒の講たちです。

語り部のおかげ。

崇俊天皇が暗殺された理由ははっきりしていません。
588年に即位した後、東漢人が殺害。

 

※蘇我・物部(戦乱の日本史)より:小学館


→東漢人が皇女:蘇我氏の娘と恋仲だったという説。
東漢人は、坂上家の出身。(百済)
後の坂上刈田麻呂が君臨。

あるいは、元妻の小手姫が殺害して逃れたとかいう
昼ドラのようなサスペンスにされていますが。

殺害はされていない説までも。

崇俊天皇の殺害があったため、
593年 出羽へ蜂子皇子が逃れる(佐渡へ)
とあるが、年数がたっている。

ちなみに、この頃の蘇我氏は娘たちを天皇家に嫁がせています。
葛城氏、和邇氏と同じように、蘇我氏と関わりをもつ氏族たち。

それに対し、物部氏は、役職名などにつけられる場合が多く、
自由な姓を与えていたので、このあたり価値観が蘇我氏と違います。

神道と仏教の対立があったとされますが、
仏教を取り入れた頃、疫病が蔓延。

用明天皇が疫病にかかると神道派は仏教のせいだとし、
お寺を焼き払います。

しかし、蘇我馬子も物部守屋も疫病になったため
神道派が弱くなっていく。

 

 

難波の淀川が西と東に分けていると思われ、
仁徳天皇(オオササギ王)が淀川沿いに築かせたとされる堤防がある。

※近江も重要


この堤防を「コワクビ」とよび、河伯(川の神)といった。


ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期。
4世紀頃。


すでに、朝鮮半島と日本は、日常のように行ったり来たりしていた。
 

 

「黒」の蝦夷

 

さて、蜂子皇子が出羽へ行く前にたちよっていたのが佐渡。

この佐渡へ行った理由は、金との交渉と思うのですが、
もうひとつ重要な民族が古くから住んでいました。

それが「黒水靺鞨(こくすいまっかつ)」

という北方の人たち。

この人たちを頼って佐渡へいった可能性がある。

靺鞨(まっかつ)とは、日本海にいた民族の呼び名。
夷狄(いてき)とも称する北の先住民。
靺鞨人の末裔で、古代北東アジア沿海州にいた

「ツングース系諸族」の称。
また、記紀には「粛慎(みしはせ)」と書かれている。

 

ツングース系農耕漁労民である「靺鞨」
日本では「粛慎(みしはせ)」でこちらの方が多く聞きます。

この民族をたどると、今まで書いてきた氏族たちの
遠祖となるので、驚き。目
かなり長い歴史考察になるので、書けたら後でまとめてみます。

すごい話になっていきますが

どんどん顕かになっていきますね。

 

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靺鞨は、太平洋では、夷(ひな)、毛人、蝦夷とよばれた。

動物の毛皮のブーツをはいていた人たち。
髪型はふつうに長くてそのまま自然な感じ。(ビジョン)

黒水というのは、黒水部にいたと。
中国の黒竜工省あたり。→ハルピン

 

※6世紀頃の大陸(中国北部が黒水靺鞨)wikipedia

五行説による黒=水のため、また北が黒なので、黒水と認識されている。

この黒水靺鞨たちが
渤海人とともに出羽国を訪れた

ことが『続日本紀』に書かれている。

靺鞨は渤海国(ぼっかい)を建国。

 



この人たちが黒と水のため、大国主(大物主)とされているのです。
それは「ネズミ」と呼ばれていた北狄に対する差別意識が働いている。

多くの文献に「鼠」が登場。
大国主が鼠であるとされるのが、この靺鞨に関係するとも言われる。

彼らは、炭鉱の民であるため、蜂子皇子が佐渡へ行った理由は、
鉱山資源のことがあった。

「子」が鼠であるのは、また「根」のこともあり。
そのような場所は、「根=あの世」とされ、
罪人が行く場所でもあった。

しかし、炭鉱の民は植物の根を使って薬草にしていたことがわかっている。
錬金術のように植物と鉱物はセット。
栃木県足尾銅山は、粟の穂をくわえた白ねずみ。


その炭鉱の民を鼠とよび、根の国とされ、大国主とされたわけです。

 

梅松山の掛け軸(埼玉県)

 


また、靺鞨の人たちは、羊歯(シダ)のぜんまいの形をした草木を取り除き、
金、鉄を探す鉱山師であり、薬師でもあったという。

シダは漢方にも古くから用いられ、恐竜の時代から生息する植物。
このシダを探せば鉱脈がみつけやすいと。

 



→蕨手刀もぜんまいを継承している。(取手の部分)
エジプトの太陽の船もそう。

 

東松島の矢本横穴の鳴瀬川は、太陽の船だった。(飛鳥時代)

 

 

 

瀬戸内海~千葉県~宮城県の太平洋の道。

でも海ではなく、阿武隈川などの川をつたっていったと思います。


そのシダを「羊歯」と書くので、羊太夫や歯のつく皇子の名前は、
炭鉱の民を指している。→(羊族)新羅系

後に長者となり朝日長者、夕日長者の物語になり、
砂金とりの豪商や炭焼商人となっていく。→金売吉次。

なので、靺鞨は、新羅と関わりをもっていた

『日本書紀』には、

欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと
斉明天皇の時の阿倍比羅夫の粛慎討伐
天武天皇・持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと


というように、古代において影響力があった蝦夷。
蝦夷征伐は、粛慎への討伐ともいえる。

この頃、物部氏の名も多い。
当時、物部氏が強かったのは、粛慎と関わっていたと思うから。
後に、天武天皇が、彼らを受け入れている。
→帰化人を埼玉県高麗に住まわせている。

 

ということで、大阪灘波にいった時の御幸森神社。

唯一、忍坂彦の皇子を祀る。(仁徳天皇と薬師=少彦名)

 

 

 

 

ここに「戎」の名があるのは、これを指していると思われる。

 

西からきた人。恵比寿。

 

 

 

大伴氏の失脚

 

蜂子皇子の母は、大伴氏。

小手姫は、最初は、崇俊天皇の妃であったとされる。

後、蘇我氏の娘が皇室として認められる。

 

この時代、歴史ではよく言われる
「大化の改新」が関わる。

でも、この歴史は長くなるうえ、

とても複雑なので、簡潔に。

蜂子皇子の母とされる大伴小手子は、大伴氏。
大伴氏は、失脚させられます。


伽耶の一部(四県)を割譲を認めたことがあった。


百済から大伴金村へ分与するように、と頼まれる。
大伴金村は、その代わりに儒学者である「五経博士」を日本に呼び寄せた。
しかし、大伴氏は百済から賄賂をもらったと言われ失脚。

この分与について反対したのが、
物部物部 麁鹿火(もののべ の あらかひ)の
新羅のことを考えてと思われる。

奥さま強し。

この妻の意見を受け、物部 麁鹿火は使いを断った。
(女性の方が権力があったのだろうか)

これを疑問に思ったのか?百済が大伴氏を疑い信頼されなくなってしまう。
それから、磐井の乱が勃発。

磐井(九州筑紫)・新羅VS百済・朝廷(倭)

 



磐井氏は当時倭国の領土だった?任那とされた伽耶を
「返還したい」目的だったとされる。

伽耶は、争いを好まない民族と聞いたことがある。
すんなり新羅に支配されるのだから。

また、磐井の乱は「阿蘇ピンク石」で書いてました。

 


阿蘇~難波~日本海と太平洋へ。
分かれて逃れた背景に、養蚕を伝えた秦氏(忌部)があり。

物部 麁鹿火の漢字「麁(あら)」は、あらたえ=倭文(しとり)

忌部のこと。


鹿は、物部氏。
忌部と物部が入っている!

えーと、ですから、蘇我氏と物部氏は本当に分断していたのか?

 

蘇我馬子

 

物部守屋(安田 靫彦図)

 

で、
蜂子皇子の道を作っていたのは、

継体天皇です!指差し

 

 

聖徳太子。(懐かしいドラマ!)

 

 

どういうことかと言えば、

継体天皇の出自は「オホド」=オオ=多氏。(大・太など)

 


 

継体天皇と大伴氏は同じ系譜かもしれない。

 

※大伴金村(かっけー)

だから、大伴金村は、日本海(羽咋)にいたオホドを
都によび、次期、継体天皇にしたのでしょう。

「継」→継ぐ→聖徳太子を。

 



その道を先につくっていたから、

蜂子皇子は逃れることができた。

 

また、「黒」があることから、
出雲もすでに日本海へ散っているので、
出雲と連合していた蘇我氏がいたことは言えます。

出羽三山には、壮大な歴史が眠っている・・・。

 

※吉野が里遺跡(弥生時代)甕型棺

 

新羅は、卵の始祖伝承で紫の王

卵→蚕の繭

では、本当に大伴氏は、継体天皇と同族といえるのか?

この話も、相当深い歴史になるのですが、
出羽三山デーなので、その話は、後にしておきます。

あくまでも、ここは妄想なのでね。

 

 

まとめると、こんな関係図を想像するのですが、

東と西は、分かれているけれど、

どちらがどっちにいたか、というはっきりした分断はなかった。

ただ、後のアテルイ・モレの蝦夷征伐に繋がってくる。

 

ヒタカミには物部氏はつきもので、

物部という人は、航海技術者でもあった。

 

互いの政略結婚を通して、支配権を広げている。

 

 

みちのくに散る巫女伝説

話は変わり、女性たちの歴史へ。

 

大伴氏と伴った秦氏は、
養蚕を奨励するためだったと思う。

小手姫の名は、福島に多く点在。
その基礎をつくったのが、大伴小手子。

 

※福島県に点在する養蚕関連の神社

律令制度ができると租税として絹が必要だった。

調庸物は、絹や荒い糸で織った麁絹など。
糸、綿もそうで、蝦夷の地では、
713年の和銅がとれた頃と考えられ、
東北地方はずっと遅れてからです。


出羽国ではじめて養蚕がおこなわれている。
最初は、出羽でした。

(鶴の恩返し発祥地:南陽市→忌部)

多賀城以北は、金。
以南は、布を輸納(運び入れ治めること)と命令される。

角田、丸森地区でも養蚕はさかんで、
倭文郷(しとり)と呼ばれていた。


県南には青麻神社もあるので、当時は、絹と麻の混合である
芋、楮、葛などが主流で、太平洋には、二ギハヤヒの祖、
穂積氏がきています(青麻神社)
麻の家紋だから、忌部。

 



秦氏と忌部は同族といわれる。

796年頃から伊勢、近江、丹波などの地域から、
養蚕、織布の技術にすぐれた婦女各二名を
陸奥国へ派遣して技術指導にあたらせている。

 

 

陸奥へ派遣された若い機織姫たちは、
200年ほど前に養蚕の基礎を作った
小手姫として名を残したのです。

 


川俣町:女神山(山頂に小手姫のイワクラがある)

 

 

ここで羽黒修験者(巫女)が小手姫を降ろしたという。

 

小手姫像

 

さて、その小手姫は、治水の女神:石姫の運命と似ている。

「信夫山の方の」黒沼神社には、皇后しか祀られていない。

※信夫山は、福島の出羽三山

 



石姫は、黒沼として治水神になっている。

これは、「鹿」の導きにより天皇の後を継ぎ、
治水を成功させた「御子円媛」とよく似ている。


その御子円姫は、福井県にいた
「継体天皇の娘」!

 

※福井県にある継体天皇伝承地の碑

 

それに、信夫山には「丸子」という湯殿山の修験者からきている名があります。

(和邇との関連は、わかりません)

 


石にされた「松浦佐用姫」も佐賀県に伝わるヒレを振る巫女。

 


彼女もまた大伴金村の子である大伴佐手彦との悲恋話がある

大伴佐手彦は、小手姫の父とは兄弟!

 


夫を想う「望夫石」とされ西洋の叙事詩から。

大伴氏と継体天皇の深い結びつきは、
娘や皇后が石や機織になって伝わっている。

※継体天皇の血筋をもつ皇女としたら・・・

この伝承が、蝦夷の地に残されていることを思いだしてほしい。

そのサヨという巫女は、アテルイがいた水沢、
最北の前方後円墳を見守る。

福島では采女としてサヨ姫が登場している。

これらすべて、東北では「悲恋話」として語り部が伝えており、
その役目をしたのが、羽黒講の女性たちだった。

 

采女(郡山)

あこや姫
小手姫
石比売皇后
佐用姫

 

そして、賀茂斎王

 



東北の巫女伝承には、

水が深く関わります。

しかし、東北の地理的環境は厳しく、
とても風が強い所でもあり、

地震、津波も多い。
風化が激しく、跡形もない。

そのため、水を救い、壷に入れ、守るという世界観があった。
その壷とは「マナの泉」

小手姫は、池に落ちて亡くなったと伝わる。


東北に散った姫たちの伝説を風化させないために、
これからも記録していきます。

 



これにて蜂子皇子は、おしまい。

 

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ちなみに、最近の「ムー」が面白い。
 
小手姫がとうとう、都市伝説に。ニヤニヤ
「秦氏は宇宙人」ヤター宇宙人
 
※島田秀平の旅杯チャンネル(ガチですな)
 
小手姫像のそばの御堂の前に、
秦の名が記されています。
 
 
「秦とは峯能のこと」
 
(マリア観音なのかな・・・)
 
ユニークに、どんどん盛り上げてほしいですね。笑
あ、でもUFOは、ここでは一度もみたことない・・・
 

次は、トミの鳥海山。
真名井の泉へGO!