つづいてしまいます。

自分への参考書として。

開拓の神の存在に、
前方後円墳があったのですが、

福島で有名な前方後円墳は、会津ですね。
さきたま古墳群とも繋がっていたけど、
時代が、会津の方が古いとしたら・・・

会津つながりがあると思いますが、
ここでは、水のことになりそうです。

水がつまっている感じ。

流れが滞っているような象徴的な
話があるのかもしれません。

眠くなりそうなほど、混乱します。
なので、わかる範囲で。

■養蚕を伝えた「東漢人」たち

ある専門家のネット情報には、


小手姫の夫は、崇俊天皇で、息子と娘がいた。

しかし、天皇は蘇我氏の娘(河上娘)と婚姻し、
皇女とした。

それに不満をもった小手姫が天皇を
殺害したというざっくりとですが。
なので、わからない。

 

機織館にて。

 

蜂子皇子(出羽三山神社サイトより)

で、これは・・・小手姫の父親の方が気になる。

蘇我氏VS葛城氏
物部氏VS大伴氏

という構図が考えられます。

 

小手姫が養蚕を伝えた川俣町では、

ちゃんと継承されており、

 



熊野・羽黒修験が守っていた痕跡も。

 

 

必ず羽黒がついています。


暗殺がなかったとしても、
蜂子皇子は、日本海へ逃れ、
母は太平洋側へ逃れた。

息子は立派に出羽三山を開いた。
それでいいじゃないか、と思ったりする・・・
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系譜をみての通り、
黒沼神社由縁の
第一皇子(敏達天皇:渟中倉太珠敷天皇)には、

皇后が二人いることに。

広姫と
推古天皇。

 


これが、何かある。

広姫と敏達天皇の間に生まれた子
「押坂彦人大兄皇子」がいます。
(おしさかのひこひとのおおえのみこ)

「忍坂」とも書きます。

そう、この方は、
必ず小手姫の話しと繋がる人ですが、

いつもぼやける。


wikipediaによれば、


蘇我氏の血を引かない

敏達王統の最有力者であって、

忍坂部(刑部氏)・丸子部などの

独立した財政基盤を有し」


蘇我氏の系譜をもたない人とは、

蘇我氏とは婚姻関係をもたなかった

という事になる。

そして財産をもっていたような事も。

信夫山の地名に丸子があるのは、丸子部のことだ。

黒沼神社の由縁は、
「蘇我氏と関わりをもたない一族」なのか?

 

広姫とは蘇我氏との関わりがないが、

それだと都合悪いのか、蘇我氏の娘を

皇后にした感じだ。

 

これは、崇俊天皇と小手姫、河上娘と、

似ている。


推古天皇の方は蘇我氏(母方)

 


以前の豪族(葛城氏)から蘇我氏に政権交代。


その以前の豪族というのは、
采女の葛城王が関係していると思う。

 

 

 


葛城氏も蘇我氏と同じく、
娘たちを天皇家に嫁がせている。

これは、母系社会の名残なのか。
女帝君臨の時代だったかも。


葛城氏についていたのは、

賀茂家、鴨家、大伴氏、佐伯氏などがいる。

これらの豪族の伝承は、東北に伝わる。

実際、福島には、安倍清明の清明の地名がある。

 



陰陽師を、賀茂家から学んでいる清明だからこそ、
福島に逃れた子孫たちに、敬意を示していることだと思う。

(福島稲荷神社)


それは、一条天皇が安倍清明を選んだことにある。
陰陽師は、安倍家が継ぐことに。


そのきっかけが、藤原実方で、
「相手の烏帽子を落とした」

で、一条天皇は、実方公を陸奥へ・・・と言われる。

二本松の猪に助けられた鹿野姫伝説は、
伽耶(かや)のルーツがあると思うけど、

「藤原実方を追って」
という話しにしているのは、


「賀茂家or鴨家」を追って、

ということでしょう。

葛城氏→賀茂氏へ流れる。

天皇家のヤタガラスがバックにいるのだ。

 



なので、押坂彦人大皇子の子に
茅渟王(ちぬのおおきみ」という名の子がいるが、

不明になっている。

しかし、「渟」の漢字を用いている。
その意味は、敏達天皇の「渟」を継いでいるからではないか?

この「渟」の意味は、

とどまる、とめる、水がとまる


という意味なんだよ!

本来の治水神としては、
真逆の意味ではないか・・・・。
(後で登場します)

 

ということを考えると、

黒沼大神、というか、福島は

賀茂家か鴨家の方の皇族が関係しており、

蘇我氏から逃れた葛城氏が関係しているのではないかな。

 

葛城氏と鴨氏によって祀られた神の
鴨都波神社(かもつばじんじゃ)を考えますと。


積羽八重事代主命と下照姫命を祀っているから。


葛城氏や鴨家などが失脚し、
蘇我氏が天皇の系譜をもつことになる。

 

 

初の女帝:推古天皇。



しかし、額田部という「ぬか」が
糠の「ぬか」と同じ。

ここは、わからない。


まあ、ここではっきりと、
「蘇我氏とは関わらない豪族」がいたことになる。

だから、蘇我氏の娘(河上娘)を皇女とした
崇俊天皇に、小手姫は不満をもった、

という説があるんだろうね~。

ただ、子どもが2人もおりますから、
実際、わかりません。

それに、東漢人という名をもつ渡来人が、
河上娘と関係をもっていたとか。


しかし、この東漢人が大伴氏とも
関わりをもっていたので、謎は深まるばかり。

 

■佐用姫と大伴氏

 

もう少し大伴氏について。

小手姫とは、大伴氏です。

 

なぜ、黒沼神社に伝わる伝説が、

(欽明天皇の皇后と息子:敏達天皇)

小手姫と蜂子皇子と似ているのか。

前回の「佐用姫に繋がっていたのです!

小手姫の父親にスポットをあててみる。


父の名は、大伴 糠手子(おおとものぬかてこ)という。

敏達天皇に仕えていました。

小手姫にとって祖父にあたる人が、
「大伴金村」


Otomono Kanamura (いじりすぎ・・・)

大伴氏は、5世紀後半~6世紀、力のあった豪族です。

大伴連・物部連と共に、「大連(おおむらじ)」とよばれ
古墳時代の役職です。


小手姫の一家は、官僚ともよべる一族だったようで、
政治、特に軍事に深く関わっていた人たちです。

物部氏と共にしていた軍事貴族だった。

その大伴金村の子には、他に、

大伴 狭手彦(おおとものさてひこ)
という人がおり、この方との悲恋話が

佐用姫のお相手なんです。(夫だった説もあるが)


※大伴狭手彦と松浦佐用姫


大伴狭手彦の妾(つま)で、
その朝鮮遠征(6世紀)を領巾(ひれ)を振って見送り、
悲痛に別れを惜しんだとされ、

そのとき登攀していた山が領巾麾之嶺(ひれふりのみね)と
呼ばれるようになった(『万葉集』)。



※コトバンク「領巾(ひれ)」より

ヒレは、言霊のことかもね。

 

そういうことで、
えーと、

 



小手姫の父、糠手子とは「兄弟」にあたる。
異母兄弟でしょう。

 

父が、大伴室屋で、物部連目と大連となる。

祖父が、大伴金村。

息子①:糠手子=不明(機織の小手姫の父)
息子②狭手彦=佐用姫との悲話

他にも子の名があるが。

奥さんがだれか、わからないのです。


そして、大伴氏が失脚した原因が、
物部氏にある
のだ。


なぜなら、

狭手彦は、朝鮮半島へ出兵。
高句麗をやぶるが、後に、物部守屋の討伐に参加している。



ということは、物部氏に敵意を抱いていることに。

大伴金村が新羅との割譲(土地を分配)
する政策で失敗したから、という理由で。


その責任を追わされ物部氏により、

失脚させられたという。


古くから軍事を司る位置にいた大伴氏は、
政界からだんだん消えていきます。


また、糠手子は、身を隠すために「秦」の
名に変えたと伝承があることから、

蜂子皇子をかくまらせるために、
聖徳太子の計らいがあった伝承と似ています。

妄想するに、
秦という名の人は、本来、蘇我氏であり、
聖徳太子になっていると思うのです。


こんな風に考えると、
蘇我氏と大伴氏は、
仲が悪かったようにみえますが、

糠手子の方は、何かがあって陸奥へ逃れるが、
(狭手彦の弟だとしたら)

秦、蘇我氏らが協力して、
大伴氏をサポートしていたのかもしれない。


そこに伽耶が浮上します。

伽耶がキーワード。

 



※wikipedia
三国時代の朝鮮半島左は韓国の教科書で
一般的な範囲(375年頃)。

半島西南部の解釈には諸説がある。

日本では、伽耶の範囲は、
「加羅」と「任那」になっている。

 

伽耶を隠した意図は・・・

 

■高度な玉造り

 

 

玉造部という職があり、
多くの技術者を秦氏をリーダとする氏族が
たくさん渡来しています。

帰化人というので、
元々は、倭人が多い。(ルーツは日本出身)

以前、書いていた記事を思いだす。

大伴氏の始祖は、天忍日命(アメノオシヒ)


『古語拾遺』や『先代旧事本紀』
「神代本紀」では、高皇産霊尊(たかみむすび)の子。


神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で、
神武天皇を助けた「高倉下の夢」に登場する神。


そんな大伴氏は、どんな一族だったか?


大伴氏は奈良県十市(とおち)、
高市(たかち)の北部を占拠とした説が有力とあり、

大伴坂上郎女が有名。


文献には「跡見症」や「磯城郡跡見」が散見されることから、
奈良時代~平安時代は、大伴一族が多く住んでいたとみられる。


その地域には、祭祀遺構、高度な精錬技術をもった
鍛冶工房、玉作工房が営まれていた。


人物埴輪、動物埴輪などもあり、
この古墳群では、最先端な技術があったと考えられるという。


その西南に、新沢千塚古墳群があり(奈良県)
この墓の主体が、

 

 

「伽耶地域と関連が深い

渡来系集団」
であるという。

それが、

東漢人(やまとのあや)」

の可能性が高いと。

 

それを統括していたのが、

大伴氏であったという。


※「古代豪族のルーツと末裔たち」より

 

※126号墳出土 玉類(wikipedia)

 

勾玉や金細工の飾が発掘されている。

 

おそらく、秦氏は新羅と思うので、

大伴氏に近づき、それに物部氏が激怒したんかも。


機織を奨励した「呉」のルーツ。
阿智王坂上家、秦氏も含まれるかな。

 

征夷大将軍になったきかっけが、

ここから始まる。

 

末裔が、東北に逃れているからですよ。

 

坂上田村麻呂の前は、大伴氏だったから。

 

東漢人が、崇俊天皇の皇女(河上娘)と関係が
問われているのは、大伴氏と伽耶の渡来人との間に
何かがあったとからだと思います。


伽耶は、新羅が征服した国でした。

 

新羅・伽耶連合と、

高句麗・百済連合。


難しいけれど、こんな豪族たちの派閥は、
今も同じように繰り返されているよね。


二本松に突如、鹿屋野姫が登場するのが
不思議だったのは、

伽耶の姫、機織姫(渡来人の移住)を
支えて来た人たちが、
政権を奪われた大伴氏、賀茂氏、古くの葛城氏
だったと思うのです。


そのサポートに秦氏の名があるのですが
これが後に書きますけど、


木幡に繋がるから面白い。


信夫山周辺に数多くの伝説があり、
丸子部や出羽三山、熊野、天狗信仰、
石になった姫の話しなど、

とても多いのはなぜか。

「忍」がキーワード。


それにこのような多くの悲恋話を残すのは、
修験者たちでもあり、
琵琶法師とかもそうですが

熊野か羽黒講たちだったと想像します。


伽耶人の職能技術を継承するべく
新天地として福島を選んだのだと思います。

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さて、ここからもっと深い話に。

前回、翡翠のことを書いてました。

なぜ、ヒスイなのか。

これが、けっこう、深いのです。

福島になぜ、あの山の名があるのか、
ずっと疑問でした。

今回、なぜこんな大ごとな?
妄想になるのかは、木幡山の祭があったから。

喜んでいるのかもしれない。

 


 

 


もし、この「木幡」が繋がっているとしたら・・・

次で最後にしようと思う。(たぶん)