栃木県の木幡神社から福島の木幡山へ行きたいと思いました。


「木幡」と聞いて、ピンときたのは、福島県の木幡山

もうひとつ、郡山にもあります。

 



が、山だけしかないと思っていたら、
マップをみて驚き。


ほんとに「隠された津島」という想像をしてしまう
立派な神社が二本松市あったのです!

 



気になる地名もいっぱい。
ここがすごかった~!

まだまだ探すとあるね~。

宗像三女神とは!
これを繋いでいたのが、宗像三女神だったなんて。

再び、小手姫の川俣町にいきましたので、
今回は、神社参拝のみとしました。

二本松は遠いと思ったけど、
意外にも川俣町のすぐ隣が二本松でした。
思ったより遠く感じず。
下道ですと2時間ちょっと。

 

休憩しながら、のほほん探訪~。

いつも梁川八幡宮で休憩して、霊山の方へ向かい、
川俣町に入ります。
のどかな風景を走るのでドライブには最高。

木幡山を知ったのは、もう十数年前になりますが、
初めて小手姫を祀る女神山登山をした時です。

 

※女神山からみえる木幡山

「源義家が木幡山にたてこもり、安部貞任と戦った時、
はるかに女神山を望んで戦勝祈願をした」

とあり、女神山からも見えます。

なぜ、女神山に向かって祈願したんだろう?
と思ったものです。

戦勝の神は、西洋でいうイナンナやイシュタルなので、
メソポタミア文明から豊饒を司るイシュタルを
女神山の女神として重ねていることがあったと思います。

 

※イシュタル

共にしているのはライオンです。
妄想するに、源氏側は獅子だったと思います。

神功皇后も妊婦さんの状態で、戦った話がありますね。

福岡と福島も、どちらも「福」なところは、
偶然なんでしょーか?

そういえば、周易で、「福」は祈祷の意味があったな~。

前回の木幡が秦氏との関係がありました。
秦氏が川俣町を経由して養蚕を伝えながら、
密かに宗像三女神を祀っていたような歴史がありそうです。

 



宗像系は日本海経由なので、太平洋側にはあまりみかけません。
しかし、福島にこんなに立派な宗像三女神を祀る神社があることに、
感動しました。

ああ、九州の民は、ここまで来たのか。。。
荒波を航海しながら。
どんな思いだったろう。

■五色の幡祭り----------------------------

それにしても、こんな修験の山とは思わず。
上まで車で行けます。

 



一の鳥居に「治陸寺(じろくじ)」という
最初、なんて読むのかわからなかったお寺があります。

 


 

意味は「陸奥を治める」という意味だそう。
天台宗です。

エミシの霊が集まりそうな名前・・・。
前九年の役ですから、ここで相当な駆け引きというか、
いろいろあった合戦場の聖地だったとわかります。

安部氏たちが必死で守っていたものはなんでしょう?

 



十一面観音様が祀られており、御堂の中にも入れます。
大きな十一面観音様とたくさんの観音様が奉納されていました。

 

 

懐かしい井戸がかっこよくなってる。。。

 



木幡山は幡祭りが有名です。

 



これは、すごい。
チベットのヒマラヤをみているような錯覚。
タルチョーみたいだー。

 


※にほんまつ観光処(壁紙あるよ~)
https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/page/page001681.html

タルチョーとは、チベットの五色の祈祷旗。


中国甘粛省祁連山脈(wikipedia)

木幡は、五幡から由来していると思っていたが、
蚕の意味だった!
→蚕機(こはた)

養蚕の話は、後にします。

幡を上げ下げしていた伝承は、秦氏の伝承です。
陰陽五行説から。

「この祭りは、天喜3年(1055年)前九年の役に由来するものと言い伝えられています。

戦いに敗れた源氏の軍勢がわずか数騎で木幡山に立て籠もったところ、
一夜にして降り積もった雪で全山が白くなった様を

追走してきた安倍の軍勢が、源氏の白旗に見間違え戦わずして敗走した
故事により現在「幡祭り」として伝承されています。

現代では、白幡を先達に色とりどりの幡が行列し「日本三大旗祭り」
の一つとも言われています。
また、古より伝わる儀礼を色濃く残していることから、
平成16年には国の重要無形民俗文化財に指定されています。」


白旗を先達に、赤、青、黄、緑、と色とりどりの
五反旗、百数十本が勢ぞろいし、ほら貝を吹きながら
木幡山の尾根を縦走します。

おそらく、五色は、古代中国の陰陽五行説に由来し、
陰陽五行説とは、万物は「陰・陽」の二気、
「木・火・土・金・水」の五行で成り立つ。

「木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒」
幡の色は、様々に組み合わされているようです。

 



他にも白石城にいた支倉家も、五色の幡を掲げていました。(↑)

五色人」の話しがありますが、それぞれの色があります。

 

でも、何のために戦った?

 

「雪が積もる」のは、季節はずれの雪だとしたら・・・

■木幡の弁財天-------------------------------

さて、いよいよ神社へ。

 


【由緒】

隠津島神社(おきつしまじんじゃ)は福島県二本松市木幡に鎮座する神社。
かつては弁才(財)天宮と称しており、
現も「木幡の弁天様」と呼ばれて親しまれる。

 



12月に行われる木幡の幡祭りが国(日本)の
重要無形民俗文化財に指定されている。旧社格は県社。

 



隠津島姫命(おきつしまひめのみこと)、
田心姫(たごりひめ)命、
湍津姫(たきつひめ)命の宗像三女神を祀る。

 



(九州福岡県宗像市 宗像大社が本宮)

記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで
宗像大神(むなかたのおおかみ)、
道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、


あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する
神様として崇敬を集めている。

 



「鎮座地である木幡山の「木幡」は「蚕機(こはた)」の謂であるとされ、
養蚕の神としても崇められる。

 

 




「社伝に因れば、神護景雲3年(769年)に安積(阿尺)国造の
丈部継足(はせつかべのつぐたり)が、
3男である継宣(つぐのり)を社司(祭祀者)に定めて
山中に勧請したのが創祀で、大同年中(9世紀初頭)に、


平城天皇の勅願により神仏が習合した両部神道に基づいて
隠津嶋神社弁財天」と称するようになったといい、


これを『延喜式神名帳』陸奥国安積郡に「隠津嶋神社」として
登載された式内社と見る説もある(後述)。

 

 

一方、近世迄は木幡山山中に栄えた治陸寺を別当とし、
同寺は同じく大同年中の開創と伝える天台宗寺院であったが、
近世以前においては天台寺院とはいえ延暦寺に属すのではなく


羽黒修験の影響を蒙った一山寺院
(中核寺院と複数の寺社から構成される独立独派の寺院組織)
であったと考えられ、それらを併せて考えると、


神護景雲の神社創祀や大同の寺院開創の真偽は
ともかくも神霊の籠る古来の聖地に勧請された神社が
その後修験道と習合したものと思われる。


創建年代は、1789年。

他、いろいろな話しがあります。
wikipedia等で確認してみてください。

 

※門神社(かどじんじゃ)

 

 

『古事記』の天孫降臨に登場する。

ニニギが天降る際、三種の神器を

常世思金神・天手力男神・天石門別神を添えたと記され、

 

同段で天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、

豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい御門の神であると記されている。

 

 


 

門神社のそばには、巨樹があります。

 

 


 

【ニ本松の板碑】

 



「古代の弘隆寺(現:治陸寺)の童塔があった区域で、
自然石を加工した供養碑が立つ。


阿弥陀如来(上)、下に観音菩薩、右下に勢至菩薩の梵字。
1321年頃。

明治初年に新政府による廃仏稀釈により崖下から落とされたものを
明治本年谷底から引き上げる際に、重いため2つに割ったためと伝わる。」

 

 

 

 

この先を登ると、三重の塔があります。

 




※天満宮

 

木幡山縁起に、「天女の尊容一基の宝塔をのこす」とあり、

宝塔が三重塔の前身である。

 

 

下から登って来た時間は、大体、10分~15分くらいだったと思います。

ちょっと階段が長いけれど、展望もあってゆっくり登れます。

 

しかしー、ここから本殿までの階段が急。

屋根しかみえねー。

 

 

途中で休む。笑

 

医薬神社(大国主と少名彦)

 

 

登りきってみたら、どどーーんと立派な本殿。

 

 

かっこいいな~。

 


 

【社号】

縁起は書いたので割愛。
 

最初 隠津島神社 次 弁天宮(平城天皇勅願による)
西暦806年。次 厳島神社(明治2年)
次 隠津島神社(明治35年)」


 

明治政府は、「厳島」にしたいけど、

後から再び「隠津」にしているのか?
 

柱など円柱の飾が立派です。
木鼻は獅子像鼻。

 

強そうな龍。

このXのようなマークは、
藩主丹羽氏(にわし)の定紋。

 



「家や城を守る」意味が込められているそうです。
家紋は、古くから南北朝より藤原秀郷隆の波多野氏と河内氏、
松田氏が用いていると。

丹羽氏は、「神八井耳命」を祖とする氏族。
というので、やはり、九州の多氏と繋がっており、
九州からきた神武東征に関わった氏族です。

起源は武蔵にあります。
児玉党→春日神を信仰する。

 



それに「ニワ」だから、ニワタリ(ニ渡神)ってことはない?
角田に高良玉垂神社があって、以前、九州王朝説を書いてました。
ルーツは、福岡県の久留米。

 

元は、ニワタリ権現だった。

海幸彦、山幸彦の古事記にある 豊玉姫が2つの玉を授けた話。

 



「若狭」のこともそうです。
藤原利仁(鬼退治伝説のモデル)が、若狭に伝承が多いのは、
奥さんが若狭の出身との事でした。(婿養子?)

北九州~日本海の若狭へ上陸、
海経由で日本海~青森へ→宗像系(住吉系はどっちか)
陸経由で信州から関東へ→安曇氏系

に別れた海民がいたわけです。

×マークをもつ丹羽氏に織田信長に仕えた
丹羽長秀という人がおり、若狭を支配していました。

若狭にいた藤原利仁と丹羽氏の関係があり、
鬼退治として語られることになる。


安部貞任、安部宗任との対戦は、東北地方でも
鬼(阿部氏側)として語られています。

 

※戦争の時の砲弾

それが、霊山にいた墨虎伝説です。
木幡山と霊山の峰は近いです。


たぶん、いろいろ調べると「磯部神社」に繋がりそう。


磯部神社を祀っているのは、
木幡神社を祀っていたオシホミミで、
「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」です。


祭神も、栃木県の木幡神社と同じです。
磯部神社は、九州のワタツミが全員集合しているような。

 

卑弥呼の本家が九州にある。

と、言いたいのだと思います。

それが宇佐八幡に関係するからです。

隠津島神社は、三女神の中でも、
沖津宮の「田心姫」を祀っているのでしょうか?
龍神色が強いから。

 



※宗像大社
https://munakata-taisha.or.jp/

本土のイチキシマヒメは、石巻牧山の麓にも祀られていました。
宗像系の海民は、太平洋側にもきているのですね。

「十種神宝」でいう奥津鏡は、吉田神道では、
伊勢外宮の御正体と同じであると。
豊受大神ですね。(ケの神=ウケモチ)

エミシの時代で言えば、

これが、鬼退治にも繋がるもので。

由来に丈部継足の名がありますが、
丈部とは、
大和政権で馳使、

あるいは宮廷での雑役・警備を務めたと思われる職業

関東の下野国にいた人なので、
764年、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で活躍した人でもある。


出世し、後にエミシ征伐に関わっているわけです。

 




 



それだから、東北の歴史は、東北だけの話じゃない!

と、思うところ。

 

 



また、この丈部氏は、

「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
で、大彦命との事。


どうしても、武蔵。

 

→武蔵をルーツとする斎藤家は藤原北家(関東から派生)だったこと。

大彦命は、
「さきたま古墳群」という巨大古墳を残した人々。

鉄剣が有名。


それで会津へいって二本松へきたのか~。
会津にも古い貴重な古墳が多い所です。



弁天様というだけあって、神社に到着したら
雨が降ってきたのです。


本殿についたらやみましたけど。

 

 

神社へ行く手前に弁天水があります。

 



 

 



しみじみする鎮守の森です~。

お祭については、こちらのサイトへ

※NHK「みちしる」
木幡山の祭
https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004500508_00000

※ちなみに、この動画に出てくる巨石は、羽山神社です。

山中にあるので、行くには登山になります。


まだ、これだけじゃなかった。
本殿をお参りして帰ろうと思ったら、裏道が続いている。

ここで見かけた石碑群に、かつての将軍たちが
熱い思いをかけて願かけをしていたように感じる森です。

次、養蚕の話しをしながら。

パート2へ。
つづく