以前のgooブログの過去記事が何年分も
いっぱいたまっているので、
どんどんまとめて書きます。

けっこう深い話になるのですが、
祝詞、です。
詳しいことは割愛。


ここでは、『秋田物部文書』という本から参考に、
興味深い点だけを拾って紹介します。

※『物部文書』とは、
1938年に一子相伝として代々受け継いできたのが
唐松神社の宮司家である物部氏であり、
出羽の地に移った物部氏の来歴ついて記録されているもの。

----------------------------------------
数年前に秋田物部氏にはまっていた時期があり、
秋田県の唐松神社で発見された史料が本になっている
秋田物部文書を読んでいたことがあった。

 

 

 


そこには物部氏の祓えの内容や祈祷、
呪術の方法などが書かれていたのだが、
文章で呪術は解けないので、理解できるようなものでもなく。

ただ、貴重な文献であることは確かで、
それを基にいろいろ考察していたのをまとめてみます。

私にとって東北の蝦夷といったら、物部氏です。
そして時期は、いつも暑い夏の日に妄想が始まる。

2015年8月。
 

 

 鳥の鳥取部について

 

まず、東北へ逃れた物部氏について。

秋田に物部氏が逃れた頃は、6世紀後半。

その後720年、上毛野胆沢公(吉弥候部)がやってくる前から
すでに中央から官人がきており、原住民を同化させていた。

つまり、この頃からすでに「熟えみし」がおり、

それが物部氏だったと思う。

前回の話で坂上田村麻呂が、斯波村(しわ)の村長で吉弥候部
という人を「物部の姓に改めさせ」農業技術者として官人にした事があった。
村の長をスカウトし「熟蝦夷にさせていた」のが物部氏だったから
名前を物部と統一させたと考えられる。
------------------------------------------
オロシエ神社、(又は於呂閉志:オロヘシ神社)

というのが胆沢にある。

後に、坂上田村麻呂が胆沢城の柵を作ることになるが、
オロシエは、「下風江」でひとつの漢字にして「オロセ」とよんだ。

吹き下ろす風のような名前だが、
風はタタラ神が定説。
この神は、イフキド神(気吹戸主神)と同じと思う。
その風と鳥はセットで、産鉄族。

また、「伊吹」の漢字も用いる。
白鳥=ヤマトタケルor物部氏=伊吹戸神(いふきど)

延喜式に、胆沢郡には7社神社があり、
磐神社、駒形神社、ワカエトノ神社、石手堰神社、
胆沢川神社、止止利神社、オロシエ神社。

胆沢にあったオロシエの場所は、多くのキリシタンがいた所であり鉱山があった。
秋田には鉱山がとても多い。

 



ちなみに、仙台の愛子(あやし)の地名もキリシタンが多くいた所。
おそらくこの鉱山資源が、一関の舞草刀を誕生させたと思い、
産鉄とユダヤ教(キリスト教)は意外にも繋がっているもの。

その胆沢7社の中に、止止利神社(ととりじんじゃ)がある。
鳥取部の祖神を祀る。=トトリ→エジプトのトート・・・

 

※鳥取部

秋田物部文書には、幼い物部守屋の子といわれる那加世を
連れて出羽へ逃れたことが記されているが、
そのお供をしていたのが、鳥取部であった。

(※蜂子皇子と物部氏は関連すると思う)

鳥取部は、垂仁天皇についていた氏族で、
伝承では鳥取部は天皇の命令で飛んできた白鳥を
捕獲するよう命じられ、追いかけていくと出雲までやってきた。


そこで捕獲することができたといった内容がある。
鳥を捕獲し献上する役職であったそうだ。

この鳥を養飼する役職名の鳥取部について、
谷川健一は、金属精錬と鳥の伝承との間には深い関係があると。

「誉津別命」という名前が火の中で生まれたことを意味しており、
「湯坐」の語に「融解した金属の湯」の意味が隠されていると指摘している。

雷神である饒速日命(にぎはやひ)を祖神とする物部氏は、
鳥養部を管轄していたのではないか、と見ている。


そして、『日本書紀』には、
用明天皇2年(587年)の物部守屋の乱の際に、
物部氏の邸宅を防衛し、敗戦後に逃亡して、
朝廷からの追手に抵抗した物部氏の資人(つかさびと)、
捕鳥部万(ととりべのよろず)のことが語られている。

ということなので、秋田へ逃れた物部氏と伴っていたのが、
これらの鳥取部である「鳥」が深く関わっていた。

那加世という子はまだこの頃3歳で、男の子であったそうだが、
一人の子の名前がはっきり記されていない。

名前が記されていなかったところから、女の子の可能性も?

 それで生まれたのが天日宮で、聖杯を示す丘のようなものだったと妄想。
いや、これは神功皇后が妊婦さんで戦ったための意味かもしれないが・・・

 



もし、女性だとしたら西の物部氏は男性、
東の物部氏は女性という理想的な融合ではないかと思っているが、
どうなんだろう・・・

 

※物部守屋

さて、そのオロシエ神社の祭神は「彦八井耳命」であり、
祀った人が邑良志別君(おろしべ)という村の長だった。
※アイヌ人説が有力。

彦八井耳命は神武天皇系統の氏族だが、阿蘇氏という話もある。

その邑良志別君の名が登場する神社が宮城県北部にあり、
伝説では、ヤマトタケルと倭姫が出てくる。

ヤマトタケルは、倭姫命より明玉を授かった。
これを頭上に載けば、たちまち賊を鎮定できると。
それは、アカルタマ(明玉)といい、この地に祀られる。

 

その地は、元々アイヌ人がいた所だった。

私がなぜ、蝦夷探訪をしているのか、
その理由のひとつとして、秋田へ逃れた阿保氏のこともある。

 

邑良志別君についてはこちら。(えみし同志の内乱)

 

 

 

 物部氏の祝詞について

 

さて、ここから祝詞のことになるのですが、
頭で考える分野ではないけれど・・・

神社で祈祷する祝詞は、今は、延喜式に基づいていると思います。
あんまりこの辺、わかりませんが、気になるポイントを。

記紀にも記されていない秋田物部氏固有の
「天ツ祝詞ノ太諄辞(ふとのりとごと)」というのがあるそうだ。

祝詞とは、延喜式は平安時代905年~つくられたもので、
律令制、摂関政治の規範といわれる。

中臣氏のクーデタがありましたが、この頃から祝詞も中臣氏の国家祭祀と
変わっていきます。
物部氏はそれ以前からあったかなり古い祝詞であったとされます。
それを基に、中臣氏が継承したようです。

えーと。。。図にすると、これだと思う(想像)

 

 

でも、豊葦原国がどの位置にあるかわからない。


簡単に言いますと、おそらく
物部氏は中臣氏と組んで、後に中臣氏が現在の延喜式の祝詞へ
変えたのだと思われる。

それに対し、古来から続いていた賀茂家(鴨家)、忌部氏は、
物部氏とは別となり、それは中臣氏には関わりを持たない神官だったことを想像。


各々が独自の祈祷を行っていたのかわかりませんが。

これが大きな違いとなり、世にいう「静かな」中臣氏のクーデター。
秦氏が物部氏とこの祝詞のことで、分断したと思われる。

 物部氏の大祓とは
 


難しいので、ほんの一部、本から参照。


延喜式の大祓六月には、動物の皮をはぐ意味?の「剥ぎ」の言葉が多い。
家族や両親(内乱のことと思う)の殺害などの罪も含め、
天災や犯罪などの犯した罪を延喜式には含まれている。

ちょっと難しいのですが、
中臣氏が奏上した祝詞の部分は、殺生の話の部分で、
その後に物部氏が独特の神代文字による誦文が唱えられ、
終わると再び中臣氏が「かく宣らば」と祝詞を奏上したという。

この頃は、まだ物部氏の方が中臣氏よりも上席だったので、
祝詞をよむところは、物部氏がやっていたという。

中臣氏と物部氏それぞれが分担して祝詞をあげているようなイメージ。

それは、以下のことで違いがある。

・物部氏の天ツ祝詞ノ太諄辞という祓えには、
その殺生の部分は一切含まれていない。

・延喜式の「豊葦原の水穂の国を安国と平らけく~」
のところを、物部氏の祓えでは、水穂ではなく「中津国」としている。
また、安国と平らけく~の部分は物部氏の祈祷にはなし。

→この意味を解読するのは困難ですが、平定していない
物部氏の思想から、漠然と中津国という神話的世界(天地創造)
のことだけではないか?

・延喜式「かく依さし奉し四方の國中と大倭日高見國を安國定さだめ奉まつりて」
物部氏の祓えは、大倭日高見国ではなく「豊葦原の水穂の国」とある。

この水穂とは、穂が稲を現すので稲作のことを指すと。

 



とまあ、いろいろ違いはあるのかもしれないが、
大きなポイントとしては、物部氏は「日高見国」を意識していないようだ。

また、豊葦原の水穂の国と示している意味は、
稲作をもたらした地域のことをさす。
また、それに対して「中津国」と呼んでいる。

 

後でのせますが、中臣氏は、那珂と言ったので、

那珂の地名を探せば、高天原が繋がる。

妄想ですが、物部氏はもっとスケールの大きい地球の創世に対し、
人類が犯してきた罪を言っているのだと思う。
そこには民族という違いの意識が見られないため。

しかし、中臣氏は、大倭と日高見国を平定したからこそ「定めた」と
言っているように聞こえる。
そこに民族の違いが見え隠れしている。

その大がつく倭(ワ)と日高見国を平定したことで
祝詞が変化し、物部氏もそれに「宣る」ことになった。


集まった参列者に向けて「宣れ」と言う物部氏。
今の鏡に向かって参列者に背を向けるのではなく。


物部氏は、倭(大和)と日高見国の融合を考えていたのだろうか?
それを祝詞で引き継ぐことになったという深い意図があったならば。

日高見国のナガスネヒコと
倭の二ギハヤヒとの統合を目指したいための祝詞を
物部氏が実践しようとしていたならば、けっこう感動する~。

しかし、それが罪だよ、人間のエゴだよ、という中臣氏も
確かにそうなんかもな。

それで多くの人が争いに巻き込まれ、亡くなっていく。
だから殺生を含めているのだと思う。
殺生は、「己の心を殺す」ことを言っているかもしれず。
古来は、自ら断つ人が多かった。(残念ながら今もそういう時代)

人類の大きな課題、民族のカルマ。
潜在的に誰もが持っているモノノフであると考える。

何のための祓えなのか、
いつもここで、考えさせられるのです。

 

 

 神の音は「K」だった

 

では、その「剥ぐ」という祝詞が何をさしているか?

具体的には、狩猟の民が関係すると思う。

「ブラーフミー文字」の「十」が気になった。

物部氏が「十種神宝」というように「十」を重視していること。

これを外国の文字で繋いでみる。

ブラーフミー文字は南アジア、東南アジア、チベット、
モンゴルのほとんどの文字体系の祖である。

ブラーフミー数字は、現在世界中で使われているアラビア数字の元になっている。

 

※/k/ を表すブラーフミー文字

 

ブラーフミー文字の子音で、十はKaの音?

 

※物部数詞の一部:ブラフミー数詞と似てる。

ヒフミ~は、頭はヒ、最後はトで、ヒト。

 

ただ、十は「ト」と読ますので、

天の岩戸の「戸」は「十」のことでもある。

 

このブラフミー文字の
十を「K音」で表すことにピンときたのですが、
神は「K」音だったことを思いだした。
アイヌはそうだった。


カムイ=KAMUI(アイヌ語で神)
カカ=猿田彦などor大蛇なども。


カムイは、肉のことで
アイヌ語で肉は、カムと呼んだ。

熊肉に限り「カムイハル」といわれ、神の食べ物の意味。
熊は別格だった。

 

そう、だから神は「肉」でありシシと言う。

諏訪信仰が肉=シシ(獅子舞or鹿舞)としていることが、ここにある。

 

物部氏は、鹿でありシシだった。

東北では鹿をシシとよぶ!

 

シシ(肉)を崇拝していた民族であるならば、

祝詞に殺生を含めなかった理由がみえてくる。


また、田畑(稲作をしない)人々で荒らす者は、
不浄の害であると解釈される祝詞でもある。

 

※畔放ち、溝埋み、樋放ち・・・

 

 

さて、これが面白いと思った。
世界の言語の音、始まりのAは・・・

 

 

ブラーフミー文字をまた辿ると、
フェニキス文字になるのだが、アルファベットの「K」の
原型と思われるのが、「牛」と関係する文字だったことに納得。


スサノオさんね~。

 

フェニキア文字

 

ということで、

物部氏は、渡来人で先住民ではないから、
後から来た人、二ギハヤヒの祖として君臨してきた。

後の藤原家と繋がることをよく思っていなかったのか、
秦氏は、蘇我氏と伴い物部氏と派閥になる。
秦氏と忌部氏とは同族と言われるため。

 

---------------------------------

私は祝詞に興味がないので分析したいタイプ。

なので、物部氏が独自の祝詞をもっていたのを知らず。

 

殺生の部分を物部氏が含めていないのは、

それが当たり前だったのではないか?

ただ、彼らが狩猟の民であると断定はできない。

 

仏教を取り入れた中臣氏が、殺生が罪である(稲作を害する者への罪)

というように祈祷をしてきたことは、犯罪とは違い、

(物部氏はその部分はよまず中臣氏が奏上した)

文化の違いであったならば、そこに私は疑問に思う。

 

あくまでも主観に基づいての考察なので、

そういう解釈もあるだんな、と流してほしい。

 

--------------------------------

さて、まだあるんです。
この祝詞で気づいたことがあった。

あの山に繋がった!

天高原山だったと思うこと。
これがまた面白い。

まだ暴走中。
あ、妄想は、つづく。